その理由はただ一つ。令和が純愛の時代だからだ。
誰もが結婚しにくい時代を経て、恋愛至上主義や結婚圧力自体が薄らぎつつある現代。恋愛や結婚の価値も、愛の形もコードも、セクシャリティも、全てが相対化されていくとどうなるか。必然的に恋愛は高度に心理化される。つまり「社会的ステータスを得るための活動」としての側面が縮小し、むしろ個人の内面にこそ密接に関係する心の問題として捉え直されていく。
恋愛も結婚も「したくない人は無理にしなくていい」「したい人がすればいい」というご時世だ。それでも尚「したい人」は、外形を得る手段としてではなく「それ自体」を求めているのだろう。それこそが我々が「心の繋がり」や「純愛」と呼ぶものだ。
筆者や友人や取材した女性達も含む多くの障害者が恋愛や結婚に困難を感じてきたという現実は、この説と何ら矛盾しない。心が目、耳、口、手、足を介して伝わるものである以上、障害者は純愛からも疎外され得る。それだけの話だ。
足の不自由さではなく、心の不自由さに焦点を当てるが…
純愛に対するニーズがとみに創作表現に反映され始めたのは『君の名は。』の頃からだったように思う。いつからか皆「クサい」という言葉を使わなくなった。感動こそが本質であり、粗を探して揚げ足を取るのはダサいとされていった。
本作の監督のインタビューで印象的だった言葉がある。
「リアルな海を知っている恒夫が、ジョゼのなかの空想の海に共感を見いだすというのはちょっといいですよね」(『月刊ニュータイプ』12月号 p.87より)
ジョゼと恒夫はその一点突破で結ばれる。その前ではあらゆるバリアは無力化され後景に引く。心の海で繋がった2人はもはや引き裂けない。それだけがこの作品の本質であり、他の要素は全て外形に過ぎないのだろう。
同氏は「これ(原作)は障害者の物語ではないと思います。この作品の焦点は足の不自由さではなく、心の不自由さ。(中略)それを表現できるのであれば、ジョゼには足の障害ではない、別のなにかを課してもよかった」とも述べている。「心の不自由さ」と障害とは明確に切り分け可能な事柄であり、後者は前者のための取替えのきく道具である、という考え方だ。