何重もの性嫌悪を乗り越えるところからスタートせざるを得ない
ジョゼが性愛の主体になるには、まずこの何重もの性嫌悪というハードルを大変な苦労により乗り越える所からスタートせざるを得ない。
それは苦しみの終わりではなく始まりだ。実写版のベッドシーン直前、「俺は隣のエロオヤジ(上述の男)とは違うし」と言う恒夫に対し、ジョゼは「どう違うの?」と問う。ジョゼはこの先の人生、相手が恒夫であれ他の誰であれ、男と交際している時は決してこの問いから解放されることは無いだろう。
「障害者 女性」でググると、出てくる内容があまりに「性」に偏っている事に驚かされる。セックスの体位等についてのあけすけなサイトが多い。サジェストされるワードも性的なものが多いが、その中でも個人的に一番怖かったのは「障害者 綺麗な子」という文字列だった。女性障害者達自身が発する意見や、また切実に必要としているであろう情報を、彼女達を消費する側の求める情報が圧倒している。
この現実から思い知らされた。彼女達がどんな社会に生きているのか。そして、本作を見て「こんな素敵な恋をしてみたい」とはなりづらいだろう事も。
ジョゼが初めて恒夫と唇や体を重ねた時に発した「想像してたんと…全然ちゃう」「ええほうや」という言葉の理由も重みも、これらを踏まえねば分からない。
本作は虎から目を背けた。しかし現実社会に生きる私達には皆、この虎と対峙する責任がある。
原作からのもう一つの大きな改変
もう一つ、原作・実写からの大きな改変として、本作でジョゼが新たに「芸術の天才」となったことが挙げられる。絵本作家を目指すに至る程の才能に恵まれたジョゼは、絵によって恒夫を励まし精神の危機から救う。単に恒夫から一方的に助けられるだけの存在ではない、という事を分かりやすく強調するシーンだ。
これは健常者との対等性を偽装するために障害者に履かされる下駄の典型例である。本作では、障害者であるジョゼと健常者である恒夫の関係の対等性を担保するために、ジョゼに才能が与えられた。同様の設定を用いた作品は『37セカンズ』(2019)をはじめ枚挙に暇がない。作り手としては手っ取り早く無難な表現として人気があり、そして当然その分だけ、多くの批判も存在するステレオタイプなのだ。
加えて、本作(特に中盤以降)のジョゼはあまりに恒夫に都合の良い存在だ。彼を無限に免責するような物分りの良い言動からは、彼を悪者にはできない制作側の事情が窺える。
ここではこうした欺瞞を指摘するよりも、むしろこう問いたい。様々な問題点を孕みながら、これ程見え透いた手段を用いてまで、それでもなお、本作で2人が結ばれたのは何故か。