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「悔いがあるとすれば…」定年を迎えた高砂親方が振り返る“我が42年の相撲人生”

「悔いがあるとすれば…」定年を迎えた高砂親方が振り返る“我が42年の相撲人生”

2020/12/30
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大相撲界に進むことを決心させた言葉

 進路に悩むなか、たまたま相撲に関わらない学生たちとの食事会での言葉が転機となった。

「長岡はいいよな。お前は大学時代に相撲をやった、としっかり言えるじゃないか。大学チャンピオンになって、タイトルもいっぱい獲って、新聞に出てさ。プロの世界に行くんだろ? 今までやってきたことが将来に繋がる。俺たちは何もないんだ。ただ卒業証書をもらって、これから就職や夢について一から考えなきゃならないんだ」

 この言葉に、長岡青年は「そうか……。俺には相撲があるんだ。よし! これでメシを食っていこう」と、はじめてプロの大相撲界に進む決心をする。

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 当時、アマチュア野球界でその進路が注目されていた江川卓になぞらえ、「角界の江川クン」と呼ばれた“大ちゃん”は、こうして元横綱朝潮を師匠とする五代目高砂部屋に入門したのだった。

85年に初優勝

親方として育てた朝青龍、朝乃山……

 今でこそ学生出身力士全盛の大相撲だが、長岡青年が入門した1978年当時は、まだまだ珍しい存在だった。幕下付け出し60枚目格で入門し、2場所で十両に昇進。(この時、部屋の兄弟子だったハワイ出身の高見山に、大きな『マルハチ』=丸八真綿の布団をお祝いとしてプレゼントされたという)

 十両も2場所で通過して幕内に昇進する快進撃だったが、その後は足踏み状態が続く。大関昇進は、じつに7度目の挑戦となった83年3月の大阪場所でのこと。優勝賜杯にもことごとく手が届かず、3度の優勝決定戦を逃して、初優勝は85年3月大阪場所。優勝はその1回に終わる。

 89年3月に引退後は、親方となり相撲部屋の師匠として弟子の育成に勤しむが、初のモンゴル出身横綱の朝青龍を育てたものの、「お騒がせ横綱」の存在に苦労もさせられた。しかし、停年の年となる2020年には、大関朝乃山が誕生。次代に夢を託した。

 42年あまりの相撲人生に一区切りがついた今、忌憚なく語ったのが、「文藝春秋」2021年1月号および「文藝春秋 電子版」掲載の「高砂親方(元朝潮)退任の辞」だ。

出典:「文藝春秋」1月号

「現役、指導者としての約40年を振り返ってみて、何か悔いがあるとすれば、やはり横綱になれなかったことです――」

 底抜けに明るいキャラクターの“大ちゃん”が、しみじみと吐露するのだった。

文藝春秋

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高砂親方、退任の辞「私も横綱になりたかった」
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