永山は死刑場に連行されたときは既に意識を失っていたのではないか、連行時に暴れた永山は制圧という名の暴行によって死刑執行後の遺体を見せられないほど傷つけられ、クロロホルムといった麻酔薬を使用されたのではないかと私は想像しました。永山は独居舎房を出た渡り廊下から職員に担がれて死刑場に運ばれたのです。そして意識のない永山に、処遇部長は形だけ死刑執行を告げる言い渡しをし、そのまま刑壇に上げて首にロープをかけ、床を落とした。おそらく本人は自分が死刑執行されたことも分からないままに絶命したのだと思いました。その想像はほぼ当たっていました。
私がこれらの永山の最後を知ることができたのは、後日8人の刑務官から送られてきた匿名の手紙によってです。そこには、死刑執行の様子だけでなく、死刑に対する率直な思い、例えば、更生させた人間を殺さなければならない矯正職員である刑務官の自己矛盾といったことも書かれていました。また、出世に汲々としている幹部を許せないという思いなども綴られていました。永山の処刑には多くの刑務官たちが心を痛めたのです」
16歳、人生の分岐点
本取材の直前、坂本は夢の中に永山が出てきたという。そして一言「なにもわからない」と告げられたというのだ。坂本はその意味を、刑死になった自覚がないということではないかと言う。
「永山の場合は16歳で窃盗未遂で宇都宮少年鑑別所に入るわけですが、家庭環境、生い立ちなどを斟酌し家裁が保護処分の決定をして少年院送致としていたら彼の人生は変わっていたと思うのです。少年院はしっかりとした学科教育と厳しくも温かい生活指導を徹底する教育現場だからです。いわゆる生きる力をつけられたと思うのです。結果的に無知のまま殺人事件を起こし極刑によって処分された。
死刑執行当日、朝食後執筆をはじめた永山は突然、独房から引き出されました。机上には書きかけの原稿があり、脇には未完成原稿と多数のノートもあった。それらすべての遺留品が遺骨とともに引受人に渡されたかは不明です。私はかつて刑務官という国家権力を背景にして仕事をした一人として、また議院内閣における法務大臣を間接的に選んでいる日本国民のひとりとして彼に心から謝罪したいのです」