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連載刑務官三代 坂本敏夫が向き合った昭和の受刑者たち

実弾50発を盗んで4人を射殺した「死刑囚」はなぜ世界から注目される作家になったのか

――死刑囚・永山則夫の実像#1

2020/12/26
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 坂本が東京拘置所で永山則夫と初めて出遭ったのは、1978年。まだ永山の刑が確定する前、被告人であった頃である。

 当時坂本は都合6年勤めた大阪刑務所から、東京霞ヶ関法務省の官房会計課に異動しており、予算要求の資料作りのために、東京拘置所に毎年1ヶ月半泊まり込んでいた。職員の待遇改善も担当の1つで、困難な勤務に与えられる特殊勤務手当、つまりは死刑執行手当の改善を図ろうとした。

坂本敏夫氏 ©文藝春秋

 刑壇に立たせた死刑囚の首にロープをかけ、別室の壁にある3つから5つの執行ボタンをすべて押して床を垂直に開く…。死刑囚が奈落に落ちてその首に何百キロという負荷がかかり、絶命するまでを見届ける。ロープの長さは身長に合わせて長からず、短からず、前日からの調整を求められる。

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 これら死刑を執行する刑務官の苦患と葛藤を転勤族の坂本自身も含め上層幹部たちは分かろうともしない。そこで死刑という仕事をさらに知るために職員並びに直接、被収容者(死刑囚及び死刑判決を受けた被告人)と面接することを望み、その中の一人に永山を選んだのである。

 1968年10月8日、当時19歳の少年永山則夫は、横須賀米軍基地に忍び込み二十二口径の拳銃と実弾50発を盗み出した。何をするという目的があったわけではないが、保持を続け、同月11日、寝場所にしようとしていた東京プリンスホテルの庭園で質問をしてきたガードマンを警官と間違って射殺。

 翌日の新聞で撃った相手が死亡したことを知った永山は死ぬしかないと考え、自死の前に一度見たいと思っていた京都へ逃走。14日に八坂神社境内で話しかけてきた警備員を射殺。その後、各地を転々として、函館と名古屋で自分が乗ったタクシーの運転手に向けて発砲、連続して第三、第四の殺人事件を犯した。これは第一、第二の事件と異なり、明らかな殺意を持った犯行だった。

©iStock.com

 書類作成の仕事こそしていたが、坂本の属性、アイデンティティーはあくまでも矯正職員にあった。19歳のときに4人を連続して殺害した男は、どんな被告人なのか。自分は彼をどう導くことができるだろうか。

 しかし、会ってみると過去、数多くの受刑者との面談を経験して来た坂本にとっても大きな驚きを禁じ得なかった。