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連載刑務官三代 坂本敏夫が向き合った昭和の受刑者たち

実弾50発を盗んで4人を射殺した「死刑囚」はなぜ世界から注目される作家になったのか

――死刑囚・永山則夫の実像#1

2020/12/26
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警察、検察、そして刑務官の仕事

 警察と検察の仕事が人を疑うことならば、刑務官の仕事は人を信じることです。受刑者を信じて信じて、それで裏切られてからが一人前です。それでも更生を信じるのです。

 信頼関係ができると、永山は私よりも少し年下の人間ですが、甘えて来ました。志をもって刑務官になった頃からずっと私は『検事は冤罪をつくらない、警察は間違わない、裁判所も正義』そう思っていました。

 しかし、その気持ちがやがて変わっていったのです」

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死刑、無期懲役、死刑…二転三転した司法

 坂本の内心が疑いと不信に変化したその大きなきっかけは、不明瞭に変容した司法の永山に対する判断だった。

 永山は1979年東京地裁の一審で死刑判決を受けていた。しかし、2年後、1981年の控訴審で東京高裁はこれを減刑して無期懲役判決を言い渡していた。坂本もまた、拘置所内の永山の更生を目の当たりにしており、これは妥当な判決であると考えていた。

永山則夫 ©共同通信社

 東京高裁の船田三雄裁判長は二審判決を下した論拠として「死刑の宣告には裁判官全員一致の意見によるべきものとすべき意見があるけれども、その精神は現行法の運用にあたつても考慮するに価するものと考える」としたが、当時、これは死刑廃止に弾みがつく画期的な判決と言われていた。

 ところが、1983年の三審で最高裁はこの判決を破棄して東京高裁への差し戻しを命じたのである。一度、無期懲役としたものを再び極刑に科した。

 このときに提示された傍論が、いわゆる死刑を選択する判断の基準となっていく。それは犯行の罪質、動機、方法、被害者の数など、9の項目に渡っており、以降、永山基準と呼ばれた。