第一声は「何だ! お前」
「永山則夫の第一印象はとにかくひどいものでした。テレビドラマなどの看守と囚人は乱暴な口の利き方がされていますが、実際はあんなものではありません。通常、刑務官と被収容者の関係は矯正という教育を伴うものですから、教師と生徒のそれに類似したものになります。生徒の側の被収容者の言葉遣いは当然丁寧で、私も刑務官になってから、失礼な言われ方をされたことは一度も無かった。
ところが、永山の第一声は『何だ! お前』でした。コミュニケーション能力がまったく無く常識もモラルも感じられませんでした。しかし、一審と二審の判決謄本を読んでその背景を知って私は考え直しました。永山は今でいうところの育児放棄、ネグレクトを受けていたわけです。
父親は失踪し、母も彼が5歳のときに家を出てしまい、残された年端もゆかない幼い兄弟4人で網走の激寒の冬を過ごしてきたわけです。集団就職で東京に出て来るわけですが、あまりの貧困でそれまでテレビを一度も見たことが無かった。
兄弟愛も無く、友人も無く、人間関係における学びも無く、職場でのイジメにも遭い、15歳で上京してから逮捕されるまで実質4年間の社会人生活ですよ。社会性の無いまま塀の中に入り、そのままでした。
私は関西で勤務していた頃を思い出しましたが、神戸や大阪で刑務所に入って来る受刑者の犯罪の原因の8割は貧困と差別ですよ。抗いようの無い貧しさゆえに犯罪に走る。しかし、永山のような極端な例を見たことがなかった」
永山を変えた「獄中のノート」
1969年4月7日に19歳で逮捕された永山は、獄中でノートの使用が許可されると、猛勉強を始めた。そして最初の小説「無知の涙」の執筆に入ったのである。
これが1971年に刊行されると、永山はその印税を遺児と遺族に支払う契約を版元と結んだ。被害者の遺族にも謝罪を続け、粛々と机に向かって文章をしたためる日常であった。それは彼にとって賠償と贖罪の行為であった。
坂本は偏見を捨てて虚心坦懐で彼と向き合った。永山とは83年までの6年間で10回以上言葉を交わすことになるのであるが、やがて変化が感じられてきた。
「永山は言葉遣いこそ、荒々しかったですが、決して命令に対して反抗的でもなかった。彼は原石でした。何よりとても頭が良かった。私が一度した話を次に面接したときにはさらに深く聞いてきました。自分で本を読み込んで勉強していたんですね。知的な興味や好奇心が旺盛で向学心もありました。