「これがお前らのやり方なのか」死刑ありきの“こじつけ”
永山自身は一審のときに「情状は要らない。死刑を望む」としていたが、その後に被害者への謝罪を始め、二審を受けて償いの気持ちをより強く持つようになっていた。それを翻弄するようなこの判決である。「これがお前らのやり方なのか」と言葉にしたという。
坂本は言う。
「あの永山基準というのは死刑にするためのこじつけですから。検察側が何が何でも死刑にしろということで量刑不当と言って来た。控訴審がそのまま活かされて、標準になっていけば、死刑が無くなってしまうというところから出された基準ですよ。最初に死刑ありきと言ってもいい」
朗読されなかった判決理由
実際に差し戻しての審理の結果はすでに分かっていたと言えた。1987年に東京高裁は控訴を棄却して一審の死刑判決を支持、そして1990年には上告が棄却されて死刑が確定する。
坂本はこの上告棄却に疑念を持っている。犯行当時、ほとんど文字も読めなかった永山は気の遠くなるような努力を続け、膨大な文字量を量産して「無知の涙」「人民を忘れたカナリアたち」「木橋」「捨て子ごっこ」「なぜか、海」などの作品を上梓し、すでに作家として世に名前を知られていた。確定判決の出る直前、日本文芸家協会に入会の申込みを行っていたのである。
「殺人を犯した人間の文芸家協会への入会が認められるか否かで、あの申請は大きな騒動になっていました。永山は日本どころか世界から注目を浴び続けていました。アムネスティやドイツの作家同盟が彼の恩赦を望む書簡を日本大使館を経由して日本政府に送っていましたからね。
永山に対して最高裁は公判を焦ったのではないかと思いました。実際、あの上告棄却の判決は主文だけで閉廷してしまったのです。おかしなことです。
無期懲役を再び死刑にするこんな重要な判決について判決理由がまったく朗読されなかった。これは理由を書かずに臨んだのではないかと思うのです。繰り返しますが、最初に死刑ありきだった」