「あの頃のヤクルトは強かったなぁ……」

 ここ数年、「1992年、1993年日本シリーズ」に関する取材を続け、昨年11月20日『詰むや、詰まざるや 森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)と題して、ようやく発売された。説明不要かもしれないが、ご存じない方のために説明すると、この2年間の日本シリーズは、いずれも西武ライオンズとヤクルトスワローズとの間で行われた。

 当時、黄金時代を築いていた西武を率いるのは森祇晶。一方のヤクルトは「ID野球」を掲げてチームを一気に強化した野村克也が監督を務めていた。92年は西武が、そして翌93年はヤクルトが、ともに4勝3敗で勝利して日本一に輝いた。両年とも、決戦は最終第7戦までもつれ込み、プロ野球史に残る名勝負と言っても過言ではない戦いだった。

©文藝春秋

 当時の西武には工藤公康、渡辺久信、郭泰源の「先発三本柱」に加え、石井丈裕、渡辺智男、新谷博らが顔を並べ、リリーフ陣には「サンフレッチェ」と称された鹿取義隆、潮崎哲也、杉山賢人ら、質量ともに充実した投手陣がそろっていた。もちろん、打撃陣も「AKD砲」と呼ばれた秋山幸二、清原和博、デストラーデを中心に、石毛宏典、辻発彦、平野謙、伊東勤ら強力打線が相手投手陣に脅威を与えていた。

ADVERTISEMENT

 対するヤクルトは「イケトラコンビ」と称された池山隆寛、広沢克己、球界を代表する捕手に成長していた古田敦也、そして勝負強い打撃が売り物のハウエルら重量打線で14年ぶりにセ・リーグを制覇する。投手陣は92年は岡林洋一が、93年は川崎憲次郎が奮闘。圧倒的なコマ不足を補うべく、故障明けの荒木大輔、伊東昭光、高野光らを何とかやり繰りして、「王者西武」に食らいついていたのだ。

 この数年間、西武とヤクルトの関係者、のべ50人に当時の思い出を聞いて歩いた。驚くべきことに、ほとんどの人が「あの2年間はどちらが勝ってもおかしくなかった」と語り、その詳細を鮮明に記憶していた。ヤクルト関係者に限って言えば、野村克也をはじめ、古田、池山、広沢、ハウエル、岡林、川崎、飯田哲也、土橋勝征、そして高津臣吾現監督にも話を聞いた。彼らは一様に同じことを口にした。

――あの頃のヤクルトは本当に強かった……。

©文藝春秋

温故知新、「あの時代のヤクルト」に学ぶべきこと

 何度も何度も当時の映像を見て、資料を整理し、当事者たちに話を聞き、あの2年間の激闘を反芻する幸せな日々の一方、2020年、自分の目の前で繰り広げられているリアルペナントレースに目を転じると、目を覆いたくなるような辛い現実が繰り広げられていた。むなしい思いを抱えたまま、神宮球場を後にする日々が続いた。1992、93年のヤクルトと2020年のヤクルトは、あまりにも違い過ぎた。

 あの頃のヤクルトと2020年のヤクルトは、一体、何が違うのか? 今後、かつての黄金時代を取り戻すためには、何をしなければいけないのか? 神宮から千駄ヶ谷駅へととぼとぼと歩きながら、僕はそんなことばかり考えていた。現二軍監督の池山隆寛は自信満々に言っていた。

「今から思えば、ヤクルトがいちばん強かった時代だと思うし、自分としても主力として戦えたし、本当に成長できたのがあの2年間でした」

 2020年シーズン、全120試合で4番を務めた村上宗隆にも、いつかこんな発言をしてほしいと心から思う。あの2年間は、確かに「名将・野村克也」の本領が発揮された貴重な時間だった。しかし、当然ながらノムさんひとりの力だけでチームを日本一に導くことは不可能だ。あの頃、どうしてヤクルトは強かったのかをきちんと検証することは、現在の低迷状態を打破するためのヒントになるのではないだろうか?

 そんなことを考えながら、僕は今こうしてキーボードを叩いているのだ。