バブル前夜に“投資家”として名を馳せ、42歳の若さで闇に消えたのが、仕手集団「コスモポリタン」を率いた池田保次氏だった。
暴力団出身で大阪を中心に地上げを始め、土地を担保に資金を調達し、80年代に株投資に注力、やがて企業の乗っ取りを企てていく。
側近の1人はこう振り返る。
「暴力団出身でもコワモテではなく、人懐っこく、(笑福亭)鶴瓶さんのような感じでした。あの頃の地上げ屋とか仕手筋で、『池ちゃん』と呼ばれていたのは彼ぐらいでしょう。しかし心の内を理解することは難しく、とにかく破天荒でした」
大阪と東京を行き来して、東京では東京プリンスホテルを定宿にした。
銀座のクラブに毎晩繰り出す池田氏の朝は遅かった。週末は、側近達が朝8時にホテルの部屋へ行き、寝ている池田氏をよそにトランクに札束を詰め、競馬の場外馬券場へ向かうのが常となった。
「第1レースから、1番人気の馬を1点買いしていくんです。当たれば第2レースの1番人気に全額入れる。それを続けるのですが、1番人気が勝ち続けるはずはなく、トランクは空になる。金額が高いためノミ屋は受けてくれず、『日本国とやります』が口癖でした。競馬新聞は読まないし、競馬を楽しむ人ではなかった。そういう無頼な、どこか刹那的な買い方でした」(同)
「昭和最後の興行師」遺族と経営陣をめぐる争い
一躍名を挙げたのが、84年に始まる観光業・日本ドリーム観光(大阪1部上場)の内紛だった。
旅芸人出身で、のし上がり、「昭和最後の興行師」と呼ばれた創業者の松尾國三氏が亡くなると、未亡人ら創業一族と、大番頭を中心とした経営陣の間で経営権を巡る争いが勃発した。池田氏が経営陣の側に付いて株を買い始めると、創業一族は引退した大物代議士を頼り、警察官僚OB、大阪の仕手筋などが加わった。争いは激しさを増し、手打ちできたのは87年4月のことだ。