30年近くヤクザを取材してきたジャーナリストの鈴木智彦氏は、あるとき原発と暴力団には接点があることを知る。そして2011年3月11日、東日本大震災が発生し、翌12日、福島第一原発(1F)の1号機が水素爆発した。鈴木氏が1Fに潜入したレポート、『ヤクザと原発 福島第一潜入記』(文春文庫)より、一部を転載する。(全2回の2回目/前編を読む)

◆◆◆

1F正門に突撃

 就職後、すぐに放管手帳を申請した。

ADVERTISEMENT

「3月なら、(放管手帳)なくても行けたんだけどね」(他の協力企業関係者)

 潜入取材において、これがすべての始まりである。後に書いた記事で取材先の業者に迷惑がかからぬよう、申請は別の業者で行った。その業者に訊くと要らぬ心配だと笑われた。

「電力(業者は東電をこう呼ぶ)にそんな余裕はない。働いてくれる人間を断るはずがない」(放管手帳を申請してくれた業者)

 正式な作業員なので、送迎や雑務などで原発の近くには何度も出かけた。立ち入り禁止区域に指定される前日の4月21日まではなんの制限もなかったので、1Fの正門前まで出向いた。

(著者提供)

 21日、午後3時50分―。

 私が乗った車は1F近くの路上に停車した。枝野官房長官(当時)が記者会見で1Fから半径20キロ圏内を警戒区域に指定、一般人の立ち入りを禁止すると発表したのは、わずか5時間ほど前のことだった。政府がここまで短期間で警戒区域を設定し罰則を設けるとは思わなかった。発表を予想していなかったため、ろくな用意はできなかった。

 白血球の減少を確認するため血液検査をしたかったのだが、いわき市の病院は閉まっていた。あちこちの出版社に頼み、カメラマンを探したが見つからず、仕方なく自分で撮ることにした。カメラは壊れてもいいよう中古の安物を買った。

 同行者は就職先とは別の、やっと見つけた5次請け業者だ。

「あの道をまっすぐ行けば正門だ。20分以内に戻ってくれ。あと、あまり目立たないように!」

 何度も釘を刺されたが『タイベックソフトウェアⅢ型』という化学防護服を着込み、重松製『CA―L4RI』という防毒マスクを被った姿で目立たないなど無理だろう。曖昧に頷いて降車し、業者の示した方角にゆっくり歩いた。

1F正門に向かって歩く著者(著者提供)

 防毒マスクを隙間なく装着するため、眼鏡は外した。裸眼で0.1の視力では景色がすべてピンぼけである。5分ほど歩くとバイク置き場の横にぼんやりした桜の木が見えてきた。近づいてみると満開でなんともシュールな光景だ。臨死体験の経験者の多くは花畑を目撃するらしい。しかしここ1Fは、極楽浄土というより地獄である。

 さらに歩くと右に『東京電力福島第一原子力発電所サービスホール』、反対側に「おもちゃの国へようこそ」という看板があった。ノーファインダーでデジ一眼を構え、適当にシャッターを切った。ディスプレーで確認すると露出がアンダー気味だ。ボタン操作で調整しようとしても分厚いゴム手袋のせいでうまくいかない。ひどく暑く、なぜか口腔内に鉄の味がした。放射性物質は無味無臭のはずだし、防毒マスクをしていたので錯覚だろう。