昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2020/10/11

飼っているダックスフンドが猛烈に吠えた

 業者の家でシャワーを借り、用意していた新しい衣服に着替えた。業者から「中性洗剤でごしごし洗えば、(放射性物質は)かなり落ちるよ」と聞いていたので、いわき市で再び体を洗い、新品のジャージと靴に替えた。タクシーに乗ってレンタカーを停めていたいわき中央インターすぐの駐車場に向かう。だが放射能パニックのせいで業者すらサーベイメーターを持っておらず、素人除染が成功したかは分からない。

 レンタカーを汚すわけにはいかないので、塗装用の白い簡易コートを着込んで運転した。都内に戻っても自宅には戻らず、子供がいないサウナを梯子して3回ほど新品の衣服に着替えた。買い直せるものは全部捨て、携帯電話や腕時計は防水なので、ボディソープと歯ブラシを使って何度もごしごし洗った。Gショックは問題なかったが、富士通製の防水携帯は4度目の洗浄で液晶部分が浸水し、買い換えるしかなかった。幸い、データは生きていた。

 翌日、真っ白い布でできた塗装用コートを着て、自宅で新品の衣服セットを受け取った。レンタカーを返却し、豊島園の健康ランドに入って歩いて戻った。異様な姿だったため、レンタカー会社からはゴールデンウイークというかき入れ時にその車を使えず、損害が出て問題になっていると何度か電話をもらった。20キロ圏内に入っていない証拠を見せるか、汚染されていない旨を一筆書いて欲しいと言われたが、典型的な風評被害なので断った。

 自宅に戻ると、飼っているダックスフンドが猛烈に吠えた。しゃがみ込んで頭をなでようとしても「ウゥゥゥ、ウワン」と吠えられる。

〈まだ放射性物質が落ちていないのかもしれない。家族やペットに移ったらどうしよう〉

 家には入らず、そのまま近くの健康ランドに戻った。タクシーを使って帰宅し、再び玄関先に近づくと、ドアを開ける前からダックスがぎゃんぎゃん吠える。どうしていいかわからなかった。自分はどうなってもいい。が、家族が被曝するのは避けたい。

 いまになれば執拗に除染したため、自分の匂いがなかったからだとわかる。なにしろ風呂嫌いの私が日に何度もシャワーを浴び、耳、鼻、口、爪の中まで石けんでごしごし洗ったうえ、衣服も靴もバッグも新品だったのだ。

寄ってこないダックス(著者提供)

 ドアの前から離れ、駐車スペースでしゃがみ込み、どうしようかと悩んでいると、お隣の若奥さんから声がかかった。奥さんはピアノ教室を開いていて、防音ルームの入口が、我が家の駐車場のすぐ脇にある。

「あらお久しぶり。また出張ですか。大変ですね。今度はどちらに?」

 立ち上がって笑顔を作り、ゆっくりと後ずさりした。

〈放射能を移してはまずい〉

 そう思ったからだ。

「北です。北。ちょっくら北に行ってまして」

「あら大変、被災地の取材? それでどちらまで? いやね、さっき変な車が停まってたんですよ。ほら、テレビで観る原発の、真っ白い服を着て、レンタカーに乗った不審な人が……」

 間違いない。その不審者は私である。

 意を決して自宅に駆け込んだ。自分の部屋に入り、ドアを閉め切った。