2016年のNHK大河ドラマは戦国武将・真田信繁(幸村)の生涯を描く「真田丸」に決まった。真田信繁(幸村)といえば、戦上手として名高い武将で、「真田丸」は大坂冬の陣で彼がもてる知略のすべてを注ぎ込んで大坂城に築いた出城(砦)の名称だが、この短期集中連載では、真田氏ゆかりの土地を、まず真田氏の君臨した上田周辺からご紹介する。第1回は、真田信繁(幸村)の父・昌幸が上田・小県地方制圧の拠点として築城した上田城である。

 

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 2016年のNHK大河ドラマは戦国武将・真田信繁(幸村)の生涯を描く「真田丸」に決まった。1月10日から始まる放送を楽しみにしている向きも多いだろう。

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 真田信繁(幸村)といえば、「日の本一の兵(ひともといちのつわもの)」と賞賛された戦上手として名高い武将で、「真田丸」は大坂冬の陣で信繁(幸村)がもてる知略のすべてを注ぎ込んで大坂城に築いた出城(砦)の名称だ。「真田丸」で指揮を執った信繁(幸村)は攻め込んでくる徳川軍を見事撃退し大坂城を守った。

今回の大河ドラマはこの砦の名称でもあるが、「真田丸」にはもう1つの意味がある。真田氏は、周りを武田、上杉、北条、徳川、織田、豊臣の超有力大名に囲まれた信濃の一地方豪族だった。身の振り方を一つ間違えば即滅ぼされてしまうような過酷な状況の中、智力と胆力、そして「小さきものの誇り」をもって生き抜き、大名に成長。江戸幕府が終わるまで真田家は存続した。その真田家を戦乱の荒波の中を渡っていく小さな家族船にたとえて、波乱に満ちた航海を描く。それも「真田丸」に込められたテーマだという。

 今回のNHK大河ドラマのテーマが発表されて以来、真田幸綱(幸隆)・昌幸・信幸・信繁(幸村)の活躍を描いた『真田三代』(火坂雅志 著)も順調に版を重ねており、社会的な注目度の高さがうかがえる。

 そんなわけで、この企画では真田氏ゆかりの地を現地の歴史ガイドと一緒に訪ね、写真とともに紹介していく。

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 上田市周辺の真田氏ゆかりのスポット筆頭といえば、上田城だろう。天正11(1583)年に真田信繁(幸村)の父・昌幸が上田・小県地方制圧の拠点として上田盆地のほぼ中央に築城を開始、同13年9月頃には城の形がほぼ完成していたと見られている。

上田城に関するさまざまな資料が展示されている櫓へは城門をくぐって左から入る
櫓に設置された鉄砲狭間。ここから攻めてくる敵を狙撃した

 上田城は、堀と土塁で囲まれ、虎口(出入口)に石垣を使った、一見簡素で何の変哲もない田舎の小城だが、そこは武田信玄もその智力を認めた昌幸が築いた城。周囲の地形や城下町をうまく利用し、攻めてきた敵を一網打尽にする仕掛けが城内に張り巡らされていた。現在の上田城でも、敵を死角となる場所から弓矢で攻撃できる「横矢掛け」や、櫓から鉄砲で狙撃できる「鉄砲狭間」など、往時が偲べる仕掛けが残されている。

 このような創意工夫と昌幸の知略で、天正13年(1585)の第一次上田合戦では、攻めてきた7000人の徳川軍を真田昌幸・信幸(信之)・信繁(幸村)ら2000人弱で迎え撃ち、これを撃破。一躍天下に真田の名を轟かせた。ちなみに当初は上越の上杉氏の攻撃に備えるため、大手を北側に予定していたが、徳川との戦いに備え、東側に大手を設置したという説もある。

 慶長5(1600)年の第二次上田合戦では、石田三成側についた昌幸と信繁(幸村)を討伐するため、徳川秀忠が3万8000人という大軍を率いて上田城へと攻め寄せたが、真田軍はわずか2500人ほどの兵力で徳川軍を数日間釘付けにした。そのせいで秀忠は天下分け目の関ヶ原の合戦に間に合わなかったという大失態を演ずることになった。

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