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姉の家族と暮らす子どもたち

 何は、手提げ袋のようなものをゴソゴソやると、詩織の子どもたちが、詩織の姉と、その子どもたち、つまり何の子どもたちと一緒に写っている写真を見せてくれた。山東省に行った後、撮影したものだという。さらに詩織が一時帰国した時のものだろう。何の一家と詩織と、その子どもたちが一緒になった写真も見せてくれた。詩織の子どもたちはまだ小学校前なのか、くりくりした頭とつぶらな瞳をカメラのほうに向けて無邪気に笑っていた。私は、それを確認した後、詩織から預かっていた金を何にしっかりと手渡した。

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 そして話の方向を変え、こう聞いた。

「詩織さんが今、どんな状況かは知っているのか」

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「だいたいは」

 後に彼は、公判廷で、詩織の情状酌量を訴えるべく来日、すべてを知ることになるのだが、この段階ではまだ詩織が犯した罪の全容は把握していなかったようだ。

 私は、事件の詳しい話は避け、詩織の生い立ちや家族のことを尋ねた。

 何は、知っている範囲で一生懸命答えてくれた。

 前述した部分と重複するところもあるが、もう一度、義兄何の説明により、詩織の故郷、家族関係をまとめる。

都市部より貧しい中国農村部の生活

 年収7万円

 何は詩織たち家族が住んでいた林口県の鳥羽口・白丸の隣の家の息子で、詩織の姉とは幼馴染みだった。集落には約150戸の家があったという。

 詩織の父親は水産業兼農業。つまり、夏場は畑を耕し、農閑期は川の魚を獲って生計を立てていたらしい。詩織は5人兄弟の三女。詩織よりは8歳上の最年長の姉が何の妻である。何よりは1歳年上で、ふたりは20歳になるかならない内に結婚している。詩織一家が鳥羽口を出るのは、その結婚の直後のことだ。

 この時、何夫婦は鳥羽口に止まった。何は一時、人民解放軍の兵士に徴用されたが、その後は日本の営林署のようなところで働いた。妻、詩織の姉も一時、代用教員などをしたが、2人めの子どもが生まれ一家4人となると、夫婦の給料を併せても食べていくのは大変だったようだ。