馬が、そんな中国農村部の人々の生活の苦しさを、改めてこう解説する。
「農村部の場合、年収が日本円にして7万円程度。これは、いいほうです。中には5万円を切るケースも少なくありません。都市部のサラリーマンの5分の1から10分の1ですよ。ここまでの何さんの話をきくと、何さん一家も、相当厳しい生活だったようです。でも故郷を離れて都会で生活を始めてからのほうが、むしろ大変だったんじゃないかな。生活費は田舎よりかかるし、都市には差別がある上、仕事が基本的には不安定ですからね」
何は、いわゆる農民工と呼ばれる立場で、臨時雇用の仕事しかなく、いくら同じ都市で働いていても、都市戸籍は得られず、医療など社会保障も受けられない筈だ、という。
私は、義兄、何の人生に深入りする話は避けた。
「詩織さんは、どんな性格の人でしたか。どんな感じの子どもだったのですか」
「私の嫁、詩織の姉は、おっとりした性格で、人に教えることも得意でした。だから小学校の先生ができたのでしょう。それに比べて、詩織は姉妹の中で、一番可愛くて、機転のきく子でしたが、妻とは正反対の性格の娘でした」
何事にもハッキリしていて、気性が激しく、一度、こうと思ったらテコでも動かない頑固さを持っていたという。
突然日本へ行きたいと言い出し単身渡航
彼女が日本行きを思い立ったときも、そうだった。
「十数年前、詩織は突然、日本に行きたいと言い出したのです。周囲はビックリし、反対もしました。しかし、彼女は信念を曲げませんでした。当時、海外に行きたい、日本に行きたいと希望する若い女性は数多くいましたが、それを実行した娘は少なかったと思います。実際、近所では詩織だけでした」
そして、こう続けた。
「詩織が日本で何をしたかはよくわかりません。でも、私もできるだけのことをしてあげたい。私、詩織に手紙を書きますが、田村先生からも、こう伝えて下さい。“子どもたちは私の子どもたちと分け隔てなく育てているから、心配するな。彼らも当初は母だけでなく父とも連絡が取れなくなったので、複雑な思いにとらわれたようだが、今は落ち着いている。いずれ母が来て話してくれると納得しているようだ。とにかく、子どもたちのことは心配しないで、今なすべきことを一生懸命やるように”」
一気に言い終えると、何は再び強い握手を求めてきた。