1月最後の日曜日、都心は青空が広がった。午後1時過ぎの東京・原宿は、緊急事態宣言下にも関わらず賑わっていた。原宿の交差点(神宮前交差点)は、信号が変わるたびに行き交う若者が溢れた。 

 今は東急プラザが建つ交差点の角地は、激しい地上げの対象となった場所だ。 

東武百貨店が債権の肩代わりに引き取った東京・原宿のセントラルアパート(外観)(原宿セントラルアパート、原宿・表参道交差点、神宮前交差点)=1994(平成6)年7月6日、東京都渋谷区 ©共同通信社

文化人を追い出したバブル富豪

 1958年、米軍幹部等の宿舎として地上7階・地下1階の「セントラルアパート」が建てられた。60年代半ば以降は、クリエイター・編集者・カメラマンなどが事務所を構えるようになり、文化人のシンボルとなっていく。 

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バブル初期の1984年、セントラルアパートを購入し、文化人を追い出して新たなビル建設を目論んだのが、“元祖地上げ屋”と呼ばれた八大産業の川口勝弘社長だった。 

原宿・表参道交差点、神宮前交差点=1978(昭和53)年8月11日、東京都渋谷区 ©共同通信社

 古い登記簿をめくると、川口社長が購入した時、世田谷区のロイヤルという会社が300億円を融資している。しかも金利は年15%。金利の支払いだけで年45億円に上る。 

 融資は、西武セゾングループが子会社を通じて行ったものだった。後にこれは問題視される。 

 当時、セゾングループはこの融資について、「大手金融機関から持ち込まれた」「地上げ業者だとは知らなかった」「不動産取得や土地転がしが目的ではない」と説明した。 

 しかしその後、川口社長の融資返済が滞り、わずか2年後に代物弁済されて所有権はセゾングループに。セゾングループは「売却する方針だが、もうけるつもりもない」と釈明した(朝日新聞87年10月24日)。 

 バブル崩壊直前の89年11月、所有者が変遷したセントラルアパートには実に600億円の抵当権が付けられ、ビルの価値は2倍以上に膨れ上がった。 

 バブル期は地上げ屋ばかりが前面に出たが、その背後には大手金融機関があり、バブルの狂騒に大企業も参戦したことを示す例である。 

 川口社長は、ハワイの島を購入して物議をかもしたこともあった。