この映画のスピットファイアは、なぜそんなにもかっこいいのか。
その大きな理由は、逆説的ながら、スピットファイアの「弱点」を作り手がよく知り、劇中の前半では、それを巧みに生かした「リアリズムに基づく演出」を徹底しているからだ。
映画の冒頭近く、トム・ハーディー演じるファリアの操縦するスピットファイアが銃撃を受け、燃料計が故障する。ファリアは共に飛ぶ僚機のコリンズに無線で「燃料の残量を定期的に知らせてくれ」と頼み、チョークで計器板に記入し続ける。こんな面倒くさいことをするのは、スピットファイアの飛べる距離が非常に短く、常にガス欠のリスクがあるからだ。
零戦の航続距離が最長3000キロを超えるのに対し、スピットファイアの初期型はわずか900キロ。戦闘中にガス欠になれば敵地か海上に不時着するしかないのに、燃料の残量が分からない。この追い込まれた状況で戦うことが、緊迫感を否応もなく盛り上げている。
劇中、コリンズのスピットファイアは海上で敵からの銃撃を受け、飛行不能になる。コリンズは機体を不時着水させるが、窓ガラス(風防)が開かず、沈みゆく機体と共に溺れそうになってしまう。
これも実際によくあったことで、極限まで軽量化されて華奢なスピットファイアの機体が、銃弾の衝撃で歪み、後方にスライドするはずの風防が動かなくなってしまうのだ。初期型に続き製造されたスピットファイアは、そうした事態に備え、風防をたたき壊すためのバールを標準装備していたぐらいだ。
私はこの夏に英国を訪れた際、ロンドン郊外の「空軍博物館」で、スピットファイアの実機の操縦席に座ってみたが、操縦桿やフットペダルを動かす以外には、ほとんど身動きが取れないぐらい窮屈で、乗り降りも大変だった。
こんな所に押し込められ、時速600キロにも達する機体を操って戦うのがどんなに不自由で恐ろしいことだったか。劇中ではそれが余すところなく再現されている。戦争中も、出撃直前に操縦席で突然パニック状態になるパイロットが相当数いたという。
そして 、ロンドン市内の「帝国戦争博物館」を訪れた際に印象的だったのが、館内の高い吹き抜けの中間部あたりに、スピットファイアの実機が吊り下げられ、その上部には1982年のフォークランド紛争で活躍したジェット戦闘機が、そして地上部分には、バグダッドで自爆テロにより原形をとどめないまで破壊された乗用車の残骸が展示されていたことだった。
英国人にとっての「戦争の記憶」はスピットファイアが活躍した第二次大戦で終わるものではなく、その後も連綿と地層のように積み重なっていることを、象徴するような展示だった。今、「過去の戦争であるダンケルク」を語ることは、好むと好まざるに関わらず「現在進行中の対テロ戦争」とも接点を持たざるを得ないのだ。