無差別テロを想起させる戦場描写
映画では、ダンケルクの海岸を埋め尽くした英仏両軍の兵士たちの頭上に、突然ドイツ機が急降下してきては爆弾を落とし、そのたびに何人もの兵士が殺されていく。
「抗うすべがなく、ただ一方的に攻撃されるしかない」という「脅威の質」において、ダンケルクの兵士たちの体験は、現在のロンドンやパリで続発する無差別テロに遭遇した市民の体験と重なり合う。欧州の観客がこの映画を観て感じる「リアルさ」「生々しさ」のレベルは、日本人の我々とはまったく異なるのではないか(ちなみにこの映画はイギリス、フランス、オランダ、アメリカの合作)。
ノーラン監督が対テロ戦争を明確に意識していたどうかは分からないが、「このような形で戦争を描くことが現代の人々の共感を得るのでは」と直観していたことは確かだろう。ヒット作を連発するクリエーターは、「時代の気分・精神」を深い所で読み取る才能を必ず備えているのだ。
だが、監督は映画人の本能として「現実に即した描写だけでは、娯楽映画としての魅力が不足している」と考えたのだろうか。それとも「スピットファイアを、もっともっとかっこよく撮りたい!」という誘惑に抗いかねたのだろうか。
劇中の後半におけるスピットファイアは、前半のリアルさとはうって変わって、「無敵のスーパーヒーロー」へと変身するのだ!
特に、燃料が完全に切れてグライダーのように滑空している状態で敵機を撃墜してしまう描写にいたっては「漫画」としかいいようがない。「1時間半にわたって執拗に描いてきた『戦場のリアリズム』は一体何だったの?」と、突っ込みたくなってしまう。
これは、「負け戦をリアリズムで描くことの限界」と言えるだろう。負け戦に人間の英雄はいないし、英雄を描こうとしてもウソくさくなるだけ。そこで、本来は「戦争の道具」に過ぎない兵器が、「英雄の代替物」としてクローズアップされ、その活躍ぶりが誇張して伝えられるのだ。先の戦争を舞台とする日本の娯楽映画が、やたらと「零戦」と「戦艦大和」を題材に取り上げるのも同じ理由だろう。
正直、「娯楽映画にそこまでリアリズムを求める必要があるか?」という気もするし、私的には「スピットファイアがかっこよかったから大満足」という結論を変えるつもりもない。
だけど、「ぐっと我慢の子」を貫き、地味でリアルな戦争描写に徹していたら、もう一段深みがあり、時代との接点も明確な「傑作」が生まれていたのではないだろうか。興行的にはこけていたかもしれないけど。
そして最後に一言。この映画を観てスピットファイアを作りたくなった人には、エアフィックス社の塗装済みキットをお勧めします。これならプラモ初心者にも簡単に完成させられますよ!
「ダンケルク」
9月9日(土)より丸の内ピカデリー、新宿ピカデリーほかにて全国ロードショー
http://wwws.warnerbros.co.jp/dunkirk/