ニッポン放送の深夜番組『オールナイトニッポン』の放送が始まったのは、いまから50年前のきょう、1967(昭和42)年10月2日の深夜1時のことである。正確にいえば、日付変わって10月3日の午前1時ということになるが、同番組の公式サイトでも番組開始を「10月2日」としており、この日が“記念日”ということになるだろう。
第1回でパーソナリティを務めたのは、ニッポン放送社員の糸居五郎(当時46歳)だった。糸居はそれ以前、1954年のニッポン放送開局時より始まった『深夜のDJ』、さらに同局が59年に日本初の終夜放送を始めると同時にスタートした『オールナイト・ジョッキー』を担当。自ら選んだレコードをかけながらしゃべり、番組を進行するディスクジョッキー(DJ)のスタイルを日本のラジオに採り入れた草分けであった。
『オールナイトニッポン』はもともと「手間をかけずに番組をつくる」という発想から生まれたという。これに、曲をかけるのもしゃべるのも何でも一人でこなす糸居のスタイルは見事に合致した。同番組の放送開始当初、新入社員の広報部員として携わり、のちに番組プロデューサーとして活躍した中川公夫は、次のように当時を振り返っている。
「基本は音楽番組の発想、何をしゃべるかについては自分で考える。リスナーからのハガキを使ってもいいし、自分の身辺で起こったことでもいい。困ったら曲をかければいいというイージーな部分もありましたね。ところが始めてみたら反応がものすごくて、ハガキが予想を遥かに超えてたくさん来た。そのハガキを読み上げているうちにパーソナリティのスタイルが決まっていったんです」(文化放送&ニッポン放送&田家秀樹編『セイ!ヤング&オールナイトニッポン 70年代深夜放送伝説』扶桑社)
番組では糸居のほか、高崎一郎や当時若手だった斉藤安弘、亀渕昭信(のちのニッポン放送社長)など局のアナウンサーやディレクターが各曜日を担当、徹夜で勉強している受験生など若者を中心に支持を集めるようになる。ちょうどテレビの普及により、民放ラジオの広告収入が激減し、新しい聴取者層とスポンサーの開拓が求められていたころだった。『オールナイトニッポン』は、DJスタイルによって若い世代をリスナーに取り込むことで、その要望に応えたのである。
このあと70年代に入ると、『オールナイトニッポン』では、局内の人間から、ミュージシャンやタレントがパーソナリティに起用されるようになり、新たな展開を見せていく。なかにはタモリや所ジョージ、稲川淳二など、まだ無名ながら、ディレクターが面白いと思ってパーソナリティに抜擢するケースも少なくなかった。