1967年、深夜ラジオの世界に革命が起きた。それまで大人向けにお色気番組を流していた時間帯に、次々と若者向けの番組が始まったのである。その一つがニッポン放送の『オールナイトニッポン』(以下、『ANN』)だ。数々の才能を発掘し、情報の発信源として時代を牽引してきた『ANN』が、今年10月で50周年を迎える。そこで、70~80年代に黄金時代の『ANN』のプロデューサーを務めた近衛正通さんにお話を伺った。
近衛さんは、タモリ・たけし・さんまのBIG3を『ANN』に起用した張本人でもある。あの時代の深夜ラジオに何が起きていたのか。第1回はジャズつながりで“発掘”したタモリの伝説を、秘話満載で語っていただいた。
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面白いこと言ってもまわりに笑ってくれる人がいない、が放送の原点
―― 『ANN』が始まったのは、近衛さんが入社する半年前なんですね。近衛さんが『ANN』を担当したのは、いつからですか?
近衛 僕は1976年からですね。会社に入ってしばらくは放送技術部で夜の番組送り出しをやっていました。番組テープの再生送り出しをする仕事です。当時は今みたいに生放送があまりなくて、ほとんどテープだった。夜6時から深夜1時まで、それから朝5時から10時までが自分の担当時間でした。
―― ちょうど『ANN』放送中が休憩時間だったんですね。
近衛 その時間は仮眠をとっていいんです。ちゃんと仮眠室もあってね。でも、会社に入ってすぐの頃だから、興奮していて眠れないんですよ。それで、『ANN』のスタジオを覗きに行きました。
―― スタジオはどんな雰囲気でしたか?
近衛 僕が覚えているのは、金魚鉢の中にパーソナリティが一人だけいる風景ですね。金魚鉢というのは、ラジオブースのことです。外ではディレクターがキュー出したり、コマーシャル出したりしてる。スタジオの中にいるのは、この二人だけなんです。
―― たった二人だけ! 今の賑やかなスタジオとは全然違うんですね。
近衛 今考えると淋しいって思うけど、全然淋しくないんですよ。面白いこと言ってもまわりに笑ってくれる人がいない。でも僕はね、周りが笑っちゃうと、喋り手の送り出すパワーが10分の1くらいに下がってしまうと思ってるんです。リスナーに向かって放送しているんだから、人はなるべく少ない方がいい。二人でやるっていうのは、まさに放送の原点だと思う。
―― なるほど、入社してすぐに放送の原点に触れたわけですね。その頃の『ANN』は、パーソナリティがアナウンサーの時代ですよね。
近衛 アナウンサーだけじゃないんですよ。元々、『ANN』は社員が喋るということが基本でした。制作部の人間もみんな、一度はオーディションさせられています。「ちょっとお前、15分ディスクジョッキーやれ」ってね。そんな社員が回してた時代が終わって、1973年からパーソナリティがタレントの時代になります。