「ケーシー高峰さんみたいな人?」って聞いたら「違う」
―― パーソナリティは、どうやって探したんですか?
近衛 ちょうどその頃、フォークブームだったんですよ。僕の先輩プロデューサーは、「フォークの人は喋りがうまいからみんないいよ」って言っていました。彼らは、歌だけじゃなくてステージでよく喋るから、うまい人が多いんです。それで、『ANN』で最初に起用したのが泉谷しげるさん。その後の吉田拓郎さんとかイルカさんにしても、この頃のデビューですよ。『ANN』の歴史の中でも、フォークの時代というのが2、3年あった気がします。
―― そして1976年からは近衛さんの活躍される時代になるわけですが、何といってもまずはタモリさんを起用されたお話をお聞きしたいです。
近衛 現場にいると、いろんな繋がりが生まれてくるんですよ。成功することも失敗することもあるんだけど、流れの中で全部繋がっている。タモリさんで言えば、高信太郎さんの存在が大きい。
――高さんは漫画家でありながら、演芸評論家としてもテレビに出られてた方ですよね。
近衛 1975年の夏に高さんの『ANN』をやったんですよ。僕も手伝っていたから、高さんと仲良くなったんです。それで番組が終わって雑談してるとき、「最近なんか面白いことありました?」って聞いたら、「いやね、面白い人がいるんだよ」って言うわけですよ。「何が面白いの?」「韓国語とか中国語のモノマネをするんですよ」。当時はね、ケーシー高峰さんが英語をいい加減に喋って受けていた。だから、「ケーシー高峰さんみたいな人?」って聞いたら「違う」と。「とにかくデタラメなんだけど、ベトナム人と中国人の喧嘩なんかを面白くやるんだよ。俺の行ってる新宿の飲み屋に夜な夜な来るんだ」
―― 新宿の飲み屋というのは、赤塚不二夫さんとタモリさんの出会いの場でもある、伝説の「ジャックの豆の木」ですね!
近衛 そうです。それで、九州から出てきたばっかりだって言うから、「あいつかな?」って思ったんですよ。
―― えっ、それだけでもうピンと来たんですか?
近衛 タモリさんは、早稲田大学の一年後輩で、同じモダンジャズ研究会で一緒でした。そのとき、タモリさんが司会をやったことがあるんですが、これがなかなか面白かった。卒業後も年賀状ぐらいは毎年交換していたんです。だから、高さんに「その人、早稲田の人じゃありません?」と言ったら、「そうそう」ってなった。「森田っていいません?」「そうそうそう」。それでもう間違いない。「連絡とれるの?」って聞いたら、「今は赤塚不二夫さんの家に居候してる」と言うので、次の日に電話したら、本人が出てきた。それで会社に来てもらいました。
「あなたの熱烈な中国人のファンがいて、サインが欲しいって言ってる」
―― まさかの再会ですね。
近衛 ちょうど高さんの『ANN』の翌週ゲストがアグネス・チャンだったんです。そこでぶっつけでタモリさんに電話してもらおうと思いついた。デタラメの中国語でアグネスと会話させたらどうなるかなって。それ以上は深く考えてない。アグネスには、「あなたの熱烈な中国人のファンがいて、どうしてもスタジオに来てサインが欲しいって言ってる。来るのは断ったけど、電話で話だけしてやってほしい」と言ってね。
―― 二人は会話できたんですか?
近衛 成り立たないですよね。だけど、とにかくタモリさんが一方的に喋りまくるの。日本語をちょっと入れたりしてね(笑)。
―― なるほど(笑)。アグネスさんの反応はどうでした?
近衛 何なんだろうって感じだったね。しばらく経って、タモリさんがテレビに出るようになってからアグネスに話したら、笑っていましたよ。その時はちょっとびっくりしたんじゃないでしょうか。