タモリさんには、どんなときもジャズの精神が流れている
―― 高さんの『ANN』は2カ月で終わってるんですね。でも今から思うと、高さんの『ANN』がなかったら、タモリさんはなかったかもしれない?
近衛 高さんがないとタモリさんがなかったかどうかは分からないけど、高さんの『ANN』があったので、一気に盛り上がったという感じはありますね。
―― タモリさんの『ANN』は、1976年9月から7年間続いてます。すでに他のところでもお話しされていると思いますが、何か秘話はありますか?
近衛 いろいろありますが、ひとつ思い出したことを言えば、あのねのねの清水国明さんが新曲を出したことがあってね。その曲をかけてくださいって言ってきたんですよ。「みかんの心ぼし」という曲です。
―― あまり乗り気じゃなかった?(笑)
近衛 いや、ただかけるだけじゃあ面白くない。それで、タモリさんの『ANN』の生放送中に毎週電話してきてくれって言ったんですよ。曲のことは喋ってもいいけど、かけるかどうかはクイズで決めることにしようと。クイズに答えられなかったら、ライバル曲をかけることにしました。これね、2カ月ぐらい毎週やりました。絶対答えられないクイズの問題を作ってね(笑)。
―― じゃあ、清水さんは毎週電話してきたんですか?
近衛 そう。でも答えられないから、曲は流さない。こんな話題作りは好きでしたね。逆に、すごいプロモーションになったかもしれません。
―― タモリさんの凄さは、学生時代から感じられてたんですか?
近衛 たしかに何をやっても結構面白かったね。あれも学生時代なのかな。タモリさんってイグアナの真似したでしょ。それ以外にオットセイとかもやったんですよ。そのオットセイがまたうまくてね。旅館のでっかい大浴場にね、石鹸の水をワーッとまいて滑るんですよ。1回転して飛び込んでくる(笑)。
―― 笑いの才能ももちろんですけど、一方でタモリさんも近衛さんもジャズマンの一面をお持ちですよね。そのことが、番組制作に活かされたことはありましたか?
近衛 タモリさんには、どんなときもジャズの精神が流れてるんだと思います。他の人と同じことはやらないしね。それにやはり切り口が独特だったから、ジャズ的な番組になったんだと思います。
赤塚不二夫、ツービートが登壇した「中洲産業大学」夏期講座
―― 今日は貴重な資料も見せていただいてるんですが、中洲産業大学の試験問題もありますね。
近衛 これは、番組の企画でイベントとしてやったんです。
―― 架空の大学「中洲産業大学」が、夏期講座を開催するというイベントですよね。学長がタモリさんで。
近衛 本当は、早稲田でやりたかったの。中洲産業大学という看板を作って、早稲田の校門に取り付けたかった。真剣にやろうとしたんですけど、交渉しに行ったら「君は早稲田の卒業生だろう。何を考えてるんだ」って怒られて。だから高田馬場のアートスペースでやりました。
―― カリキュラム表には、「強要学部」とか「利口学部」と書かれてます(笑)。講師もタモリさんをはじめ、所ジョージさん、ツービートとすごい豪華ですよね。他にも、赤塚不二夫さんや山本晋也さんも出てて、今で言えば、サブカルの匂いのするイベントですよね。
近衛 そうですね。でも、僕はサブカルチャーっていう言葉は嫌いなんですよ。あいつはサブカルチャーだからって言い方するけど、サブカルチャーから生まれるものは大きい。だってその時代をつくる人は、前の時代になかったものをやるわけだから、精神はカルチャーそのものじゃないですか。
―― たしかにそうですね。『ANN』は、タモリさん以外にも所ジョージさんやビートたけしさんなど、時代をつくった人をたくさん「発掘」しました。次は、そのときのエピソードを聞かせてください。
このえ・まさみち 1946年東京生まれ。早稲田大学第一政経学部卒業。早大「モダンジャズ研究会」に所属し、学生ジャズ研連合による来日中のジョン・コルトレーンのインタビューにも携わる。68年、ニッポン放送入社。76年からオールナイト・ニッポンのチーフプロデューサー。ニッポン放送常務取締役を経て、現在ニッポン放送監査役。ジャズ研究家・岡崎正通としても活躍する。
写真=鈴木七絵/文藝春秋