性描写も妥協なく撮影していることにより、作品の完成度がぐんと上がっているんです。BL作品における濡れ場の必要性は議論がいるところもありますが、濡れ場はBLを観たという心地になる、ひとつの到達点であることは確かです。
そもそもの“官能小説の口述筆記”をするという原作設定の勝利だし原作の素晴らしさは言わずもがなですが、必然性のある官能的なシーンをひよることなく感情込めて映像化してくれたところ、リスペクトです!
これは近年のテレビドラマにありがちな、「シャワーシーンをつくって男の裸を見せておけば数字が上がる」という安易なサービスショット的な思惑とはまったく違います。ギリギリを攻めた挑戦に、制作陣の意地と心意気を感じます。
以上のことからも、真面目にBLに取り組んだ結果うまれた作品だということがわかります。
都合よく「普遍的な愛」にされるBLドラマ作品
昔は同性愛の絡んだ作品は「禁断の」という枕詞がよく使われていました。時代とともにそれはなくなってきたと思いますが、ここにきて新たな言葉が使われだしました。それが「普遍的な愛」という表現。これ、BLの実写作品が増える中で、たびたび見受けられる言葉です。「普遍的な愛」というと一見聞こえがいいですよね。
でも、本当にそうでしょうか。BL原作を目立たないようにきれいにラッピングして、これは男性同士の恋愛の話ではなく、普遍的な愛の話なんです! 性別を超えた普遍的なラブストーリーなんです!(そもそも性別は超えてないが!?)と強調することは、マイノリティの存在を隠す言い回しでもあると思います。
これは供給する側がBLをまだイロモノ扱いしていると起こる現象です。この言葉を聞くと、そもそもBLに普遍的な愛がないとでも? 愛を異性愛で占有しているからそういう言葉が出てくるんだ! と言ってやりたくなります。
普通に考えたら、現実世界で異性愛とそれ以外の愛の不均衡がなくなってから使われるべき言葉だと思います。そしてそういう作品はたいてい、異性愛で散々描かれてきた固定観念の再構築にしかなっていなかったりします。