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野球「チェコリーグ」初の日本人選手・田久保賢植 “口論も厭わない国”で得たもの

文春野球コラム ウィンターリーグ2021「呼ばれてもいないのに海を渡った野球人」

2021/02/21

 月の平均気温は夏でも25度ほどで冬場には0度を下回ることもある中欧の国・チェコ。国技とも言われるアイスホッケーやチェコスロバキア時代にW杯準優勝2回のサッカーが盛んな国で、野球は「マイナースポーツ」の部類に入る。しかし、近年は2014年の欧州選手権で4位に入るなど、欧州でかねてより強さを見せているオランダやイタリアに続く勢力の1つとなっている。

 そんなチェコの国内トップリーグであるエクストラリーガで、2012年に初の日本人選手となり、2015年にはオールスターにも出場した男が田久保賢植(たくぼ・けんしょく)だ。その後にはオーストリア代表チームのコーチも務めるなど異色かつ流浪の野球人生を歩み中欧で確かな足跡を残し、現在は日本で若い選手たちの指導を行う。そこには様々な地と文化で野球をしてきた田久保だからこそのアプローチがあった。

田久保賢植 ©高木遊

チェコリーグ初の日本人選手になるまで

 初めてチェコの地を踏んだのは28歳の時。紆余曲折、波乱万丈の野球人生を経て辿り着いた欧州の地だった。

 初めて海を渡ったのは高校生の時。野球専門誌に載っていたエクスポズのベースボールアカデミーの募集に応募しアメリカ・フロリダへ渡った。それまでは在日韓国人(現在は帰化)であることをコンプレックスに思うようなこともあったが当時、将来有望な“捕手”としてオランダからやってきていたバンデンハーク(元ソフトバンク)とも同じ部屋で暮らすなど様々な人種に接して意識が変わった。

若かりし日のバンデンハークとの一枚 ©田久保賢植

 また野球に取り組む姿勢についても「1秒でも多く野球に費やそうと考えていましたが、そこで知り合った選手たちはオン・オフの切り替えが凄い。練習はメチャクチャ真剣にやっているけどオフは緩くて、価値観が180度変わるような体験でした」と大きな刺激を受けた充実の2ヶ月だった。持ち前の打撃を中心に良いアピールを続けていたが肉離れを発症。後日「怪我さえなければ契約していたのに」とMLBのスカウトから残念がられるほどだった。

 心機一転、日本の大学に進むが180度変わってしまっていた価値観によって監督と衝突し退部・退学。そこから1年は遊んでばかりで「クズでした(笑)」と振り返る日々を過ごした。それでも、心の奥には衝動で野球をやめてしまった後悔が残っていた。

出稼ぎのストリップ嬢とルームシェアしながらトライアウトを受け…

 20歳の時に現役復帰し再渡米。トライアウトには受からなかったが、その後は日本の社会人チームや四国アイランドリーグ、カナダでプレーした。カナダではエージェントの家に中南米の選手たちと住み込んだり、チャンスがあると分かれば、オンタリオ州から21時間かけてケベック州へ移動。泊まるあてもなく出稼ぎのストリップ嬢とルームシェアしながらトライアウトを受けに行く生活までしてチャンスを求めたが契約には至らずに24歳で第一線からの引退を決断した。

 帰国後はクラブチームの強豪・YBC柏でプレー。昼間はコピー機の営業をして優秀な成績を残した。英語がほとんど分からない中での海外挑戦の日々で「立ち振る舞いや所作で相手がどう思っているのかが分かるようになっていました」と営業に大いに生きた。「体格良いけど何かスポーツでもしていたの?」などという雑談の中で話す自身の野球人生にも興味を持ってもらうことも多かった。

「世の中のお金の流れや稼ぐことの大変さを知ったと同時に“付加価値”の必要さを余計に感じました」

 そこでオンリーワンの人間になるべく再び挑戦の日々へと舵を切った。会社を辞めて関西独立リーグのコリア・ヘチと大阪ホークスドリーム、冬場には気候が日本とは反対の南半球のオーストラリアでプレーした。

 ただ年齢は既に20代半ばから後半に差し掛かっており、NPBなど上の世界に進むのは困難になっていた。そこで、かねてから親交のある三好貴士(ツインズ傘下ガルフコーストリーグツインズ監督)の知人であるオーストラリア人選手や監督がいたチェコへ行くことになった。入団したのはフロッシ・ブルノというチーム。2012年、28歳にしてチェコのトップリーグであるエクストラリーガで初の日本人選手となった。