私は死んだ妹を背負いはしなかったけれど、空襲警報のたびに骨壺を持ち出す係でした。家の電気を消して、製糸工場の横を通って近くの川辺へ降りて、しゃがんでいるんです。そのときに「アキちゃん」って妹の名を呼ぶと、骨壺の中のお骨がカタコトカタコトいうのよ。敵機が来てビューッと飛んで行くまで、そうやって隠れていました。
戦争が終わって横浜へ帰り、幸い父も家も無事だったので、焼け出された近所の方々を招き入れ、とにかく一所懸命にただ生きてるだけでした。その頃はわからなかったけれど、いまになってみると、なんて大変な時代を潜り抜けてきたのか。でもあの頃の経験を思い出さなきゃいけないし、通ってきた道を語らなきゃいけない。あんな辛い思いを、日本人に二度とさせてはいけませんからね。
「焼き場に立つ少年」に注目したのは、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇です。令和元年十一月に長崎を訪れてスピーチしたときも、大きく印刷したパネルが横に置かれていました。ローマ教皇がこの写真で、戦争や原爆の怖さを世界へ知らしめようとしているのに、日本は何をやっているんでしょう。それが恥ずかしくて、私は憤っているんです。
日本を守っているつもりになっている方々は、あの少年の写真を見て、絶対に戦争をしないと念じて欲しいと思います。私たちが涙を流すだけでは、どうにもなりませんもの。もしも日本が戦争のほうへ向かいそうになったら、あの写真を持って行って見せればいい。それで気付かないようなら、国を守る立場をやめていただきたい。
87歳、タガが外れた
私は、旅行ジャーナリストの兼高かおるさんとお友達でした。昭和三十四年から三十一年間も放送された『兼高かおる世界の旅』は、まだ海外旅行が自由にできなかった頃の日本人に、世界を教えてくれるテレビ番組でした。五歳年上の彼女とは、夜中によく長電話をしたものです。