突然だった。「え、今、なんて?」聞き返した自分の耳に、妻からさっきと同じ、覚悟を秘めたフレーズが入ってきた。

「別れてほしい」

 一瞬で俺は、ここ最近の自分の行いを振り返った。浮気? してないしてない。DV? するかそんなこと。借金? そもそも俺には金を使う趣味も道楽もない。なら、どうして??

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 夫として父親として、俺は精一杯働いてきたつもりだ。専業主婦の妻とかわいい子どもを守るために。家族を守るために。そりゃ残業もあるし接待だって飲み会だってある。あぁあれか、この間子どもの誕生日に終電で帰って来たことを怒ってるのか。でもそんなことで離婚なんて、世の中の大半の夫婦はやっていけないぞ。

 いや、もしかしておまえの浮気か? そうなのか? 誰なんだ相手は? 俺の知ってるやつか? いつ、いつからだ……混乱する俺の頭の中を見透かしたように、妻は静かに言った。

「理由はそんな簡単なことじゃないのよ。私たちのこれからのこと」

「……これからって」。これから、これからも、俺は一生懸命働くし、おまえは家のことを守って、そうやって年を取って、子どもも巣立って、そうやっていくんじゃないのか。そもそもそうだ、おまえ俺と別れてどうやって暮らしていくんだよ。このご時世、就職だって大変だぞ。子どもは、幸太はどうするんだ。どうやって養うんだ。俺の質問には何も返さず、ただ一言だけ妻は言った。

「一緒に行ってほしいところがあるの」

俺が知ってる妻じゃない

 幸太を実家に預けて、俺たちは二人で出かけた。そういえば二人で電車に乗るのも相当久しぶりだった。夏はサヨナラも告げずに過ぎ去り、日暮れが少し冷たい風を運んでくる。二人は無言のまま大船行きの京浜東北線に揺られていた。そういえば、最近妻は変わったかもしれない。どちらかといえば引っ込み思案で、あまり自分の意見を言うこともない女だった。でも、そう、この前、家族3人で外食に行ったときだ。ファミレスでいつものように妻は子どもの面倒を見て、俺はカレーを食べていた。そのときに「私もちゃんと食べたいから、あなた代わって」と。ビックリした。そんなことを妻が言うのは初めてだったから。いつだったか帰宅すると、テーブルに通信教育の資料があった。俺がそれを見咎めると「資格を取って、また私も働こうと思って」、俺の飯の支度をしながら、妻は恥ずかしそうに言った。「無理すんなよ。それに家のことどうするんだ」。あの時の妻の、スッと青ざめていく表情が、今になって思い出された。電車は二人が初めてデートしたみなとみらいの観覧車を静かに通過した。

「一緒に行ってほしいところ」それは横浜スタジアムだった。「おまえ野球好きだったんだ」「そうよ、知らなかった?」。久しぶりに笑った妻。「やっぱり、その……男なのか?」我慢できずに聞いてしまった俺に、妻は呆れたように言う。「野球を好きなことに、男も女もないでしょ」。確かセ・リーグはもう順位も決定して、消化試合に入っているはず。それなのにスタジアムは満員御礼だった。というか、ベイスターズファンってこんなにいたのか。会社帰りのサラリーマン、女子グループ、親子連れ、カップル……俺はガラガラで野次が飛び交うハマスタしか知らなかった。席につくと妻はカバンからおもむろに何かを取り出した。

 ユニフォームだった。

 倉本だった。

 ピンク色の刺繍で、「見せろ男意気」って。俺は意識が遠のいていくのを感じた。俺が知ってる妻じゃない。今俺の隣で、聞いたこともないような大声で、「くらもとぉぉぉぉぉぉ」と絶叫しているのは、俺の知ってる妻じゃない。はちきれそうな熱気の中で、俺だけ奈落の底に沈んでいくようだった。「あなたはこれを持って」。妻の声で我にかえる。渡されたタオルには「I☆YOKOHAMA」と書かれていた。