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母に、祖父に、父に届け。中日の育成・松木平優太が“珍しい名前”を世界に轟かせる日

文春野球コラム ペナントレース2021

2021/04/25

「世界中に松木平という珍しい名前を知らせたいです」

 去年12月の入団会見で、育成ドラフト3位指名の松木平優太は力強く誓った。私は会見場にいたが、コロナ禍で取材制限があり、言葉の真意を本人に聞くことはできなかった。

「メジャー志向でもあるんですか」と、私が彼を担当した山本将道スカウトに尋ねたところ、「いや、そうじゃないんです。結局、言えずじまいでした」と表情を曇らせた。山本スカウトは「松木平は身寄りがないんです。どのみち分かることですから、この場で全て喋ろうと、昨日打ち合わせをしたんですが、質問がなかったですね」と打ち明け、「彼には両親がいない子供たちの希望の星になって欲しいです」と話した。

 先日、松木平に直接、話を聞くことができた。

松木平優太 ©若狭敬一

父の不在と大好きだった母の死

 2003年2月24日。松木平はインドネシア人の父と日本人の母の間に生まれた。1つ年上の姉がいる。2歳の時、両親は離婚した。その後は大阪市内の母の実家で祖父母と5人暮らしをしていた。

「父とは公園で遊んだ記憶くらいしかないです。物心がついた時にはいませんでした。今も連絡は取れていません」

 野球との出会いは小学校1年生の時だった。

「最初はソフトボールでした。近所に住む親戚のおじさんとキャッチボールをしたのがきっかけです」

 翌年、悲劇が訪れる。

「今でも鮮明に覚えています。病室で医者が『息を引き取りました』と言ったんです。いつも一緒に遊んでくれて、大好きだった母が亡くなりました。僕は涙が止まらず、姉は横で泣き崩れていました」

 肝臓がんだった。亡くなる3年前から入退院を繰り返していたという。

「救急車が苦手でした。音がすると、また母が連れて行かれるんじゃないかと。だから、救急車の音が近付くと、いつも布団を被っていました」

 母との死別を小さな体で受け止めようとしたが、無理だった。

「元気が出ず、黙々と生活を送るだけでした。あの頃はずっと暗かったです」

 一瞬だけ笑顔になれる時があった。それは夢で母に出会えた時だ。

「いつも通り、台所で僕と姉に料理を作ってくれて、そのまま食卓で喋りながら食べるんです。でも、目が覚めると、『あれ、いないや』って。夢に母が出てきた時はずっと寝ていたかったです」

 幼い姉弟を祖父母が懸命に支えた。

「お陰で少しずつ立ち直れました。祖父は野球好きで、一緒にキャッチボールやランニングをしてくれました。毎晩、ナイターを見るのも楽しみでした。祖母は僕がソフトボールの練習が終わって帰宅する頃にいつも温かいご飯を作ってくれていました」

 祖父母の愛に加え、松木平を悲しみの底から救ったのはチームメイトだった。

「最初は母の死を言えなかったんです。でも、コーチがうまく伝えてくれて、みんなが励ましてくれるようになりました。同級生のキャプテンのお母さんは僕の弁当まで作ってくれました。祖母に負担をかけないようにと。あの時、仲間がいなかったら、1人で全部を抱え込んでいたと思います」