「幸運な男」のこれからの人生
長い間、「いつか、伊藤智仁で一冊の本を書きたい」と思い続けていた。そして昨年の秋にようやく出版企画が通過する運びとなった。ヤクルト球団、そして伊藤本人に企画を認めさせた若い編集者の努力のたまものだった。「伝説の高速スライダー」の使い手として、引退後もしばしばメディアで取り上げられることの多かった伊藤智仁。おそらく、彼の野球人生を描きたいと考える書き手も多かったことだろう。
最初に、「これまで書籍化の話はなかったのですか?」と尋ねると伊藤は言った。
「ありましたよ、何度か。でも、“僕にはまだ早いかな?”って思って断っていました」
続けて僕は、「では、どうして今回は企画を承認してくれたのですか?」と尋ねる。
「長谷川さんだからですよ。“何だかおもしろそうやな。どんなことを聞かれるのかな? どんな本になるのかな?”って楽しみだったから……」
目の前でこんなことを言われて、喜ばない物書きはいない。こうして、昨年の冬から集中的に彼に話を聞く日々が始まった。あるときは沖縄キャンプで、あるときは遠征中の大阪や福島で……。今季のヤクルトは負けに負けた。あきれるしかないほど負け続けた。それでも、彼はこの文春野球においても、「月刊伊藤智仁」取材を受け続けた。
低迷するチーム状況を受けて、マスコミやファンの間で「戦犯探し」が始まると、「投手陣崩壊」「故障者続出」の矢面に立たされることも多くなった。それでも、「最後までシーズンをまっとうする」と、彼は言い続けた。明言はしていなかったけれど、シーズン中にはすでに「今季限りでの退団」を覚悟していたことは、すぐにわかった。
当初はシーズン終了直後に発売予定の新刊も、ある時期から「今季の去就をきちんと描くことこそ、伊藤への恩返しであり、ファンのためにもなるのでは?」と考えた僕は、発売延期を決断した。そして10月3日、伊藤智仁の「最後の一日」を見届けた上で、この日の出来事を収載することにした。
シーズン最終戦となる10月3日――。この日もヤクルトは負けた。球団史上シーズン最多記録となる96敗というとんでもなく不名誉な記録とともに、今季は幕を閉じた。試合後、選手たちの手によって、伊藤は三度神宮の夜空に舞った。
この夜の出来事を加筆した新刊の発売は11月17日に決まった。タイトルは『幸運な男――伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』(インプレス)とした。この題名をつけたのは作者である僕だ。彼の話を聞いていて、世間に流布する「悲運のエース」のイメージ以上の「幸福な人生」を感じたからだ。ここで、その理由を詳細に説明する紙幅はないけれど、それでも僕は「伊藤智仁は幸運な男だ」と思っている。タイトルを本人に告げる。本人が納得しないようであれば、すぐに変更するつもりだった。
「なるほど、《幸運な男》か……。なるほどね、確かに幸運やな(笑)」
噛みしめるように言ったこのひと言を、僕は生涯忘れないだろう。
93年の入団以来、25年間、常にヤクルトとともにあり続けた男が、今季限りでユニフォームを脱ぐ。今後の去就はまだ確定していない。それでも、伊藤智仁は幸運な男なのだと僕は信じている。そして、何よりも本人が「僕は幸運な男ですよ」と信じている。新たな人生の幕開けを心から応援したい。幸運な男はこれから、どんな人生を歩むのだろう? 願わくばもう一度、ヤクルトのユニフォームを着て神宮に戻ってくる日を、僕は心待ちにしている。
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※「文春野球コラム ペナントレース2017」実施中。この企画は、12人の執筆者がひいきの球団を担当し、野球コラムで戦うペナントレースです。コラムがおもしろいと思ったらオリジナルサイト http://bunshun.jp/articles/4459 でHITボタンを押してください。