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“昭和天皇の喪中”、“礼宮は学生で留学中”…「異例中の異例」だった秋篠宮さまと紀子さまの“ご婚約発表”

『日本の血脈』より #1

2021/04/13

source : 文春文庫

genre : ニュース, 社会, 読書

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「確かにここに川嶋家はありました」

 川嶋家の屋敷は、紀ノ川近くの元町にあったという。今回、調べて訪ねてみたが、跡地はアパートや自動車の整備工場になっており、確かに何も所縁と思えるものは残っていなかった。だが、地元の古い住民に尋ねたところ、「確かにここに川嶋家はありました。塀の向こうには米倉がいくつも見えましたよ」と返ってきた。

 紀子妃の曽祖父は、この川嶋家に明治の初期、婿養子として迎えられたという。当主の川嶋庄右衛門には女児しかおらず、その長女の志まと結婚したのが東京高等師範学校(現・筑波大学)を卒業したばかりの松浦力松だった。松浦力松は川嶋家に入り、名を川嶋庄一郎と改める。この庄一郎が紀子妃の曾祖父にあたる。

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 では、この川嶋庄一郎こと松浦力松とは、どのような人物であったのか。

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 彼は海に面して開けた和歌山市の出身ではなく、もともとは高野山に近い内陸の有田郡、当時は安諦村と言われた山深い村里に生まれ育った。安諦村へは今でも和歌山市内から電車や自動車を使って2時間ほどかかる。茅葺屋根の家が点在する静かな山里で、紀子妃の曾祖父が生まれた茅葺の家もまだ残っていた。

「このあたりは山が深くて、平地が少ないやろ。昔は林業と、箒などの原料になるシュロ、それがこの村の主要な作物やった」

 畑で農作業をしていた人が教えてくれた。

 この村に川嶋庄一郎こと松浦力松が生まれたのは、明治3年のことだった。貧しい農家の三男坊で5歳の時に父が亡くなり、生活はさらに困窮したという。

 だが、時代は明治の変革期、廃藩置県や地租改正が行われる一方で学制もまた整えられていった。義務教育制度が促され、この小さな村にも明治9年に小学校が出来た。ちょうど力松は6歳だった。それが、山村の貧しい農家に生まれた力松の生涯を大きく変える。力松の誕生がもう少し早ければ、彼がこの村を出て立身出世を果たすこともなかったであろう。

学習院大学を通じた奇縁

 当時は教師などいるわけもなく、村の住職がにわか教員となって、子どもたちの教育にあたったという。力松の聡明さは抜きんでていたようで『安諦村誌』(大正3年)には「天資英明」と讃えられている。力松は、この後、学業に励むことで人生を切り開いていく。

 村の小学校を卒業すると、詳しい経緯は不明だが和歌山尋常師範学校に進んだ。当時の師範学校は授業料が無料であった。そのため力松でも進学することができたのだろう。卒業後は同学校の訓導(現在の教諭)となる。だが、力松はさらに明治24年、東京高等師範学校に入学する。卒業後に見込まれて川嶋庄右衛門の娘、志まと結婚し婿養子となるのが明治27年のことだ。

 以降は、教育者として京都府尋常師範学校を振り出しに、富山や滋賀で教鞭を取った。明治34年には学習院教授となり、初等学科長も兼務している。後に孫の辰彦も学習院大学教授となり、また曾孫の紀子妃がこの学校に学ぶことになるのは奇縁であろう。