「紀子さまスマイル」とも呼ばれるはにかんだ笑顔に、語尾には「ございます」をつけるやさしい言葉遣い。「3LDKのプリンセス」として国民の熱烈な歓迎を受け、秋篠宮妃となった紀子さまは、それまでいったいどのような環境で生まれ育ってきたのだろう。
ここでは、ノンフィクション作家石井妙子氏の著書『日本の血脈』(文春文庫)を引用。秋篠宮紀子さまの“ルーツ”について紹介する。(全3回の1回目/2回目、3回目を読む)
(※年齢・肩書などは取材当時のまま)
◆◆◆
異例づくしの婚約発表
その女性は、ある日突然私たちの目の前に現れた。
昭和が終わり平成の御代を迎えた、まさにその年のことである。
天皇家のご次男の、思いがけないご婚約発表。その、お相手として紹介されたのが学習院大学教授の娘であり、同大学院に通う川嶋紀子だった。
世間は大いに驚き、人々の眼はテレビや新聞、週刊誌のグラビアに釘付けになった。
皇室担当記者が語る。
「考えてみれば異例中の異例の出来事でした。宮内庁記者たちは、まったく想像もしていなかったでしょう。まず第一に昭和天皇が1月に亡くなられた、その年の8月のことで、まだ喪中でしたからね。しかも、礼宮は学生という御身分、当時はイギリスに留学中でした。年齢もまだ23歳とお若かった。兄宮に先駆けるというのも、長幼の序を重んじる皇室において、考えられないことだった」
「紀子さんフィーバー」の始まり
はじめて婚約内定者としてマスコミの取材を受けた時、紀子は水玉のワンピースを着て、父、川嶋辰彦学習院大学教授の隣で、ただ微笑んでいた。世間はその清楚で可憐な姿に打たれ、翌日には水玉の洋服が飛ぶように売れたといわれる。「紀子さんフィーバー」の始まりであった。
川嶋家が学習院のキャンパス内にある、団地づくりの教職員住宅に住んでいたことも大きな話題となった。庶民的な生活ぶりは、意外性とともに好意的に受け止められ、「3LDKのプリンセス」とマスコミは呼んだものだった。
「川嶋家にはテレビがない」といった私生活も大きく紹介され、川嶋教授の、どことなく浮世離れした雰囲気や喋り方に至るまで、ありとあらゆる話が俎上にのぼった。テレビは朝から晩まで、「紀子さん一家」を連日取り上げ、それはまさに狂騒、といっていい騒ぎであった。
大学院に通う紀子は、当時、まだ22歳。それまで、カメラの放列の前に立つことなどなく、そう衆目に晒される経験もなかったはずだ。しかし、紀子は少しも動じず、いつもマスコミに微笑んで応じた。
その後、礼宮と並んで公式の記者会見に臨む日を迎えたが、当日の紀子は黒に近い、濃紺のワンピースを着ていた。それは天皇が亡くなり、まだ喪中であることを意識しての選択であったのだろう。通常ならば美智子妃が白色、雅子妃がレモンイエローのワンピースで臨んだように、若い女性の婚約という寿ぎに相応しい、明るい色目の服を選ぶはずである。一見、喪服にも見える姿に接し、これは皇室にとって、たいへん大きな節目になるのではないかと改めて感じたことを今、思い出す。