ご成婚の当初、「東宮が男子に恵まれなかった場合をのぞけば、皇統には直接関係しない弟宮」と見られることも多かった秋篠宮家。しかし、悠仁さまのご誕生や、秋篠宮さまが皇嗣となられたことで、「皇統に関与する宮家」へと変貌を遂げられた。

 ここでは、ノンフィクション作家石井妙子氏の著書『日本の血脈』(文春文庫)を引用。運命に押しつぶされることなく、時代の変化の中で、自分の処し方を見つけていった紀子さまのルーツを紹介する。(全3回の2回目/1回目3回目を読む)

(※年齢・肩書などは取材当時のまま)

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ふたりの紀子

 統計学に身を捧げ、最終的には奉職を投げ打ってしまった川嶋孝彦と結婚し、夫を支え続けたのが妻の紀子だった。紀子妃の名前の由来にもなった祖母である。川嶋家に近い人物はいう。

「紀子さんは、このお父さんの母、紀子さんに顔も性格もよく似ているそうです。持って生まれたものが近いのだと言う人もいます。穏やかだけれども芯が強い。とにかく頑張る、我慢強い。そういったところが大変似ているのだと聞きました」

『紀子さまの育児日記』『悠仁さまへ』などの著書がある高清水有子もこう述べる。

「紀子さんは言葉遣いといい、雰囲気といい、本当に上品で素敵な方でした。見事な敬語で、しかもお優しい控え目なご性格だった。『ああ、このおばあ様あっての紀子さまなんだ』、そう感じました」

©文藝春秋

会津人の気概

 この祖母、紀子には会津士族の血が流れていた。そしてまた、自分に流れる会津の血を非常に強く意識し、「会津人の気概」を貫いた女性であったという。

 紀子の父、池上四郎は会津藩士の子として生まれ、親兄弟とともに戊辰戦争を11歳で経験している。鳥羽伏見の戦いでは兄・友次郎が戦死し、続く越後小千谷の戦いでは井深宅右衛門が率いる遊撃隊に加わった父が負傷した。なお、余談になるがソニー創業者の井深大はこの井深家の末裔と言われる。

 会津若松城の決戦では戦死した兄や負傷した父に代わって、兄の三郎とともに四郎が籠城して官軍を迎え撃った。

赤坂御用地でカリンの木を眺められる紀子さま 宮内庁提供

 この時、会津若松城に攻め込んだ官軍の中には佐賀藩士(多久領)であった美智子皇后の母方の曽祖父もいた。なお、雅子妃の先祖も佐賀藩士である。

 会津は戦いに敗れ、その後、藩領を没収されると、藩主であった松平容保の嫡男、松平容大以下、会津藩士たちは極寒の地、斗南(現・青森県むつ市)へ移住させられ、四郎もこの時、父母や兄とともに斗南へ移った。その地で味わったのは開拓農民としての壮絶な苦しみである。痩せた大地、凍りつく寒さ。開拓に励む中で旧会津藩士たちは飢えと寒さにより次々と亡くなっていった。そんなある日、父は、息子の三郎や四郎を前にして、こう説いたという。