子どもたちにも細心の注意を払う“配慮の人”
敵側についた裏切り者と四郎を見る人もあったかもしれない。だが、四郎は「新時代の中で力を尽くすことこそが会津藩士の道だ」という父の言葉を噛みしめて働いた。利権を求めず、休息することさえ惜しんで働き続けた。大阪市長を務めた後には、肝胆相照らす仲であった田中義一が総理大臣となったために、朝鮮総督府政務総監に任命されて日本を後にした。しかし、過労が祟ったのだろう。在任中の昭和4年、東京で倒れてその生涯を唐突に終えた。休むことなく走り続けた、71年の生涯であった。
四郎が家族や部下を叱りつけたことは一度もなかった。娘の紀子が語るように村の子どもたちにも細心の注意を払う、配慮の人であった。それは逆臣と言われ、流浪を余儀なくされる辛苦の中で得た視点、つまりは敗者の視点であったろうか。
この四郎を陰で支えたのが、妻の浜であった。実は四郎と浜は、ともに再婚同士であり、その間を取り持ったのは西郷隆盛の弟、従道であったと、今回の川嶋家をめぐる取材の中でわかった。
日本の近代史に名を残す人物が名を連ねる家系
この浜の父、小菅智淵も日本の近代史に名を残す人物である。陸軍参謀本部の初代陸地測量部長を務め、また日本全国の測量を推進して5万分1地図を作製する基礎を築いたことで知られている。
小菅は天保3年(1833)、江戸牛込に幕臣の子として生まれ昌平坂学問所で学んだ。後には幕府の海軍機関である軍艦操練所に出仕し、西洋の科学技術全般、中でも特に数学と工学に秀でた才を見せたという。やがて戊辰戦争が起こると、幕臣として小菅は最後まで官軍と戦った。一説には「会津若松城で戦い、土方歳三とともにそこから脱出すると仙台から榎本武揚の軍艦に乗り込み、箱館に渡って五稜郭で戦った」といわれている。それが事実とすれば会津若松城では、後に娘の夫となる池上四郎とともに籠城して官軍を迎え撃ったということになる。
五稜郭の戦いで、小菅は榎本武揚や新撰組の土方歳三らとともに、最高責任者のひとりとして指揮を執った。その戦闘の中で土方は戦死した。力尽きて降伏した後、榎本武揚と小菅のふたりは、最高司令官としての罪を問われて処刑されそうになった。この時、「新政府にとっても有益な知識を持った人間は生かしておくべきた」と薩摩藩士の黒田清隆が助命を強く訴え出て、処刑が取りやめられたという。