身を削るような努力を重ねて道を切り開いていった兄弟
「日新館(筆者注・会津藩藩校)に学んだ道を基礎として、勉強するのだ。それが儂の願ひだ。新時代に沿つた立派な人になつて呉れ、それが武士道を生すことにもなるのだ。武士の道は刻苦、忍耐と魂の錬磨とにある。その道を他に代へて生すことが出来る」(『元大阪市長池上四郎君照影』)
兄弟はこの父の言葉に従い、斗南から出ることを決意する。それは見方を変えれば、貧苦と困難の中で、力を合せて土地を開墾しようとする仲間たちを裏切り、見捨てることでもあった。だが、老いた父は、「それは裏切りではない。新しい世の中で、会津藩士として学び鍛え上げて来た自分の能力を発揮することこそが侍の道である」と説き、自分は極寒の地に残るから、お前たちはこの地を離れよと、その背中を押したのだった。老いた両親や、仲間のことを思えば後ろ髪を引かれたことであろうが、ふたりの兄弟は東京を目指すと、身を削るような努力を重ねて、それぞれに道を切り開いていった。
「大大阪建設の父」
兄の三郎は司法の道に進んだ。後には函館控訴院検事長となっている。弟の四郎は警察畑を歩んだ。警視庁に採用され20歳で巡査となり、その後、警部として石川や富山、東京、京都と目まぐるしく赴任し、大阪府警察部長となった。この時、警察行政の手腕が高く評価されて、大正2年に大阪市長となる。
その在任期間は3期10年と長く名声が高かった。財政改革や、都市計画に係わり、大都市大阪の基礎を築き「大大阪建設の父」と評されている。福祉という概念のまだなかった時代に、さまざまな福祉政策を打ち立てた。会津藩士として味わった貧苦の苦しみから、常に飢えの苦しみにある人々へと心を寄せたのだろう。
末娘にあたる紀子は、父の思い出として、このようなエピソードを書き綴っている。
「父は平素御座敷にて一人で食事をなし、母や子供がお給仕をするのが常であつたが、日曜日に郊外の茨木の休み家へ参つた時だけは、私共も共に食事をしました。その折私が『田舎の子供が……』と話した時『土地の子供は田舎の子供と云はれては、いゝ気持がしないものだ』と話したので、父が此の村の子供の気持まで察して一言々々気をつけて話す人だといふ事を深く感じ、この一言は私の只今の生活の上にも大きい指針となつてゐる」(川島紀子「亡き父の思出」)