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会津藩士の血、幕臣の血

 小菅はその後、しばらく投獄されるが恩赦となり、明治政府に出仕を命じられて、かつての宿敵である山縣有朋の元で、参謀本部の陸地測量部長となった。

 幕臣でありながら新政府軍に命を助けられ、その新政府に仕える。小菅の心には、池上四郎と同じように深い葛藤があったことだろう。小菅は池上四郎がそうであったように仕事に没頭し職務に命を削った。日本全国を歩いて測量し、正確な地図を作りあげることに邁進する。明治21年、基線測量の旅に出た途上で、チフスにかかり死去した。享年56。池上も小菅も、仕事中に亡くなっている。逆賊から新政府に徴用され、その中で適応し、出世を果たしていった者の背負わされた苦悩を感じる。

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 この小菅が紀子妃の祖母である紀子の母方の祖父である。つまり紀子には会津藩士であった父の血と、五稜郭で戦った幕臣の祖父の血と、その両方が注がれていたということになる。紀子は、それを強く意識して生きた。

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 紀子の娘である佐藤豊子が手記でこう語っている。

「大阪市長を10年つとめた祖父池上四郎と、近代的測量術によって、5万分の1の地図を作った曾祖父の小菅智淵については、折々聞かされたものです。

 祖父や曾祖父を見習って人のために骨惜しみせずに働くように、そして礼儀正しく真っすぐな道を歩むようにと、母は子どもたちに言い聞かせていました」(佐藤豊子「祖父母、父母、こどもたち」『婦人之友』)

 紀子妃もまた幾度となく、祖母・紀子の口からこの話を聞いたことであろう。

鉄砲を手にした叛乱兵にも動じず対峙

 こんな逸話も紀子には残されている。

 夫の孝彦が内閣書記官として昭和11年ロンドンに随行員として出張していた際のこと、二・二六事件が起こった。当時、川嶋家は首相官邸に隣接する官舎に住んでおり、鉄砲を手にした数人の叛乱兵たちが土足で踏み込んで来た。紀子は少しも動じず、静かに、こう述べたという。「ご覧の通りおんな子どもばかりでございます」。