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紀子さまの父・辰彦氏の温厚な性格

 紀子は昭和15年、紀子妃の父となる辰彦を産んだ。辰彦は疳の虫の強い子どもだった。川嶋家を知る人が振り返って語る。

「辰彦さんは今からは想像もつきませんが、道端に転がって泣いては、手足をバタつかせて我を通そうとするような子どもだったそうです。そんな時でも、紀子さんは何もいわず、ただ黙って抱きしめた。決して、叩いたり怒ったりしない。子ども本人が自分で行いを改めるまで待ち続ける。そういう辛抱強い方だったそうです」

 紀子も孝彦もともに穏やかな性格で、決して子どもを叱ったり、手をあげたりすることはなかったという。

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 辰彦の「疳の虫」は、紀子のお蔭であろう、成長するとまったく消えた。その後はうって変って、非常に温厚で人と争うことを好まない性格になったという。

 川嶋家を知る人が続ける。

敗者になることを勧める

「紀子さんはたびたび『負けることはいいことなのよ。負けることでわかることがあるのよ』と柔らかい口調で辰彦さんに諭したそうです。喧嘩でも何でも、決して『相手を負かしてきなさい』とは言わなかった」

 敗者になることを勧める母。そこには逆臣とされた会津藩士の父、幕臣であった祖父の影響もあるのだろうか。

 二・二六事件の叛乱兵を前にしても動じず、その一方で敗者の視点を持つことの大切さを説いた紀子は、辰彦の人格形成に大きな影響を与えた。辰彦は母の自分に対する教育に感謝し、自分の子育てにおいても、それを踏襲したいと考えたという。ある人は辰彦から、「僕も絶対に子どもを叱ったり怒鳴ったりはしない」と聞いたと語る。

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 辰彦が17歳の時、父の孝彦が亡くなった。辰彦はその後、戸山高校から東京大学へ進学するが、父が法学部だったため、父と同じ学部は避けたいと思い、経済学を選んだという。だが、専門としたのは計量経済学で、気づかぬうちに父が愛した統計の要素を含む学問を選択していた。考えてみれば、父は統計学を専門とし、母・紀子の祖父である小菅智淵は測量の第一人者である。辰彦はその血を濃く受け継いだのかもしれない。

 辰彦はその後、大学時代に知り合った女性と大学院1年時に結婚する。女性の名は杉本和代、紀子妃の母である。

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