民間人が皇室入りするにあたっては、私たちにははかり知れないほどの困難があるだろう。しかし、紀子さまはそのような困難を乗り越え、皇統に関与する宮家の一員として、積極的に公務に取り組まれている。紀子さまの“強さ”はいったいどこから湧いてくるのだろうか。
ここでは、ノンフィクション作家石井妙子氏の著書『日本の血脈』(文春文庫)を引用。紀子さまの母である杉本和代氏のルーツ、そして紀子さまの生い立ちを振り返る。(全3回の3回目/1回目、2回目を読む)
(※年齢・肩書などは取材当時のまま)
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もうひとつのルーツ
杉本和代は杉本嘉助、栄子夫婦の長女として昭和17年、静岡に生まれた。
当時、一家は満洲国の奉天で暮らしており、栄子は出産のために静岡に一時里帰りし、無事、出産を終えると、愛児を胸に夫の待つ奉天へと再び戻っていった。
嘉助の生家は静岡で箪笥や鏡台をつくる家具製造業を営んでおり、嘉助も家具職人となることを父に望まれた。だが、勉強がよくでき、また教師の熱心な勧めもあって、旧制の県立静岡工業を卒業すると、奨学金を得て横浜高等工業学校機械工学科(現・横浜国立大学理工学部機械工学科)に進んだ。その後、技術者として満鉄に就職して渡満し、同じく静岡出身で満鉄社員であった服部俊太郎の娘、服部栄子と結婚したのである。
夫婦は最初に長男を授かったが、満洲の厳しい気候の中で病気になり、間もなく他界した。これを父親の嘉助は大変に悔やんだ。その後、長女の和代も満洲の寒さの中で長男と同じような症状を起こした。嘉助は医者に頼らずに自分の手で和代の背中をさすって介抱したという。この時の経験が、後の嘉助の生き方を決めることになる。
敗戦を一家は奉天で迎えた。満洲での日本人の立場はその日を境に大きく変わった。さまざまな悲劇が起こった。だが、満鉄の技術者であった嘉助は、こうした他の日本人たちとは少し異なる戦後を送った。占領軍となった中国側が、その技術力を欲したためである。技術者だけ集められた地域に囲われて暮らし、中国の人々に技術を教えた。故に、略奪や飢えの恐怖を味わうことはなかったという。
ようやく帰国の途に就くのは、2年後の昭和22年。嘉助一家は、家族全員がそれぞれリュックひとつを背負って引き揚げ船に乗った。満洲で築いた財産は全て失い、その後、故郷の静岡で新しい生活を始める。
満鉄の技術者であった嘉助は、医療器具の開発に取り組んだ。ようやく納得のいく機械が完成し、嘉助は日本とアメリカの両方で特許を申請した。昭和33年から、いくつかの特許が下りた。結局はコストがかかりすぎて、製品化には漕ぎつけられなかったが、そこで機械を販売するのではなく、機械をつかった治療をしようと考えて、整体の治療院を立ち上げる。
その治療院は、かつて静岡駅近くの泉町にあった。東海道線が通る線路の近くで、ひっそりと営んでいたという。近所の人は語る。
「ああ、そこにありました。その路地を入っていった、奥に治療院があったんです。でも、ある日突然、治療院をやめてしまわれた。その後、間もなく紀子さまのご婚約の発表があり、とてもびっくりしたことを憶えています。杉本さんは穏やかで上品な、いい方でした」
杉本夫妻には娘がふたりいたが、慎ましい生活を送る中でも、教育費は惜しまず、静岡英和女学院というミッション系のお嬢さん学校に通わせた。その後、長女の和代は高校を卒業すると、東京の昭和女子大学短期大学部に進学する。