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紀子さまの誕生

 そして、この短大時代に東大在学中の川嶋辰彦と出会う。当時、辰彦は駒場祭での催し物の費用を捻出するために、同級生たちとダンス講習会を主宰していた。その講習会に、友人とともにダンスを習おうとやってきたのが和代だったという。

 和代は短大を卒業すると、静岡に戻り、地元の企業に勤めた。だが、東京と静岡に離れても辰彦との縁が切れることはなく、ふたりは間もなく結婚した。とはいえ辰彦はまだ経済学を学ぶ大学院生、会費制でささやかな結婚式を挙げた。

 昭和41年、ふたりは子どもを授かった。和代は静岡の生家で出産した。夫妻はこの子を紀子と名付けた。

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 紀子が生まれた昭和41年は、実は大変に出生率が低かった。その理由は干支にある。この年は丙午だった。丙午の女児を授かることを避けたいという親が、当時はまだ多かったのだ。だが、川嶋夫婦は、もちろんそのような旧弊な考えを持ち合わせてはいなかった。

 辰彦は紀子が生まれた翌年、東京大学大学院を修了し、アメリカのペンシルベニア大学大学院に留学することが決まった。一家はフィラデルフィアに移住する。

人種による差別感情などを持たない人間にという願い

 その生活は6年にわたり、紀子はここで現地の幼稚園と小学校に、それぞれ1年ずつ通った。辰彦は子どもの教育を考えて、この時、日本人学校や白人だけが集まる学校を避け、あえて生徒や教師の多くが黒人である現地校を選んで娘を入学させたといわれる。肌の色や人種による差別感情などを持たない人間になって欲しい、との願いがあった。辰彦を知る人は語る。

「本当に学者タイプで、少し浮世離れした方です。穏やかで絶対に怒らない。どんな相手に対しても常に敬語で話します。また人間は常に対等であるという考えで、日頃から『自分は国籍や肌の色による差別、他、あらゆる差別意識に反対の立場を取る』と発言しています。

 親子関係でも親が子どもより上という考えは持ちたくない。一つの人格として子どもを見て、対等な関係で接するようにしたと聞きました。だから小さな子どもにも敬語で話すのだと。夫婦関係ももちろん対等、また生徒と教師の関係も、上下ではなく対等で平等であるべきだという思想の持ち主です。専門は計量経済学ですが、授業では、そういった問題意識から被差別部落問題なども取り上げています」

 そんな父と、学者肌で理想主義者である夫を支える母のもと、異国のアメリカで紀子は育った。家での親子の会話は全て英語だった。紀子は6歳まで英語を母国語として育つ。

昭和48年7月 米・フィラデルフィア・リー・スクールに通われている紀子さま 宮内庁提供

 紀子が小学1年生の時、父が日本で就職することになり帰国した。ちょうど母の和代が妊娠中だったため、紀子は母とともにアメリカから戻ると、まず静岡の杉本家で暮らした。静岡市立中田小学校1年に編入している。紀子は少しも日本語が話せず、アメリカとはシステムも文化も何もかもが違う日本の小学校に戸惑いを見せたという。当時を知る人が語る。