雅子妃が受け続けた無遠慮な批評
あくまでも一般人の、お妃候補の一人でしかなかった雅子妃は、そのため誰からも守られることなく、記者たちに追われ、たびたび雑誌やテレビで取り上げられては、無遠慮な批評を何年間にもわたり受けることになった。お辛かったことであろう。雅子妃はご結婚後、当時のトラウマから写真のフラッシュに恐怖をお感じになるようになったと言われる。ご病状は重くなり、やがて適応障害という病名が発表された。
対照的に紀子妃は皇室に、見事に適応された。それだけでなく、自己実現を果たされていったようにも見える。公務には積極的で、色鮮やかな皇室ファッションで様々な行事に参加され、次々と新しいことにチャレンジし、現在は、日本学術振興会の名誉特別研究員として、お茶の水女子大学にて心理学の研究に再び取り組まれている(編集部注:2017年6月にお茶の水女子大学の人間発達教育科学研究所の特別招聘研究員に就任)という。悠仁親王を、それまでの前例を破って学習院ではなく、お茶の水女子大学附属幼稚園に入学させることができたのも、このことと無関係ではない。雅子妃が民間人であった時の輝きを失っていかれたのとは対照的だ。
川嶋家の家系を見つめてみると、貧しさと逆境の中から艱難辛苦を乗り越え、時代に適応していった人が多い。
農家の三男として生まれ和歌山市視学になった川嶋庄一郎、会津城で戦い斗南に流されながら、新政府のもと、大阪市長となった池上四郎、同じく幕臣として五稜郭で戦い、その後、新政府で陸軍参謀本部測量部長という要職に就いた小菅智淵、あるいは満洲鉄道で働き、リュックサック一つで引き揚げた杉本嘉助。皆、ハンディを背負い、あるいは負け戦を体験し、時代に翻弄された人々である。だが、そこで運命に押しつぶされることなく時代の変化の中で、自分の処し方を見つけ、第二の人生を切り開いていった。
紀子妃は昭和天皇が崩御された後、宮中にお入りになった。あのご婚約から平成という時代は始まり、秋篠宮夫妻の歩みは、そのまま平成という時代に重なっている。
喪を払う寿ぎ
東日本大震災が起り、日本中が悲しみに包まれた、その年の秋、紀子妃の第一子、眞子さまが成人され、ティアラを頭に頂いた煌びやかなローブデコルテのご正装姿を披露された。その時、二十数年前に服喪の中、濃紺のワンピースを着て記者会見に臨まれ、たどたどしい言葉遣いで喜びを見せた、かつての紀子妃の姿が一瞬思い出された。
不幸の中の慶事。喪を払う寿ぎ。それがこの宮家の、ひとつの宿命でもあるのだろうか。
現行の皇室典範が改正されなければ、紀子妃がお産みになった悠仁親王が、天皇になられる可能性が高い。(編集部注:2020年、秋篠宮殿下は皇位継承順位1位の皇嗣となり、悠仁さまは皇位継承順位2位となられた)ご成婚の当初、「皇統には直接関係しない」あるいは、「弟宮だから」と見られたご一家は、「皇統に関与する宮家」へと、大きく変貌を遂げられたのだった。初めての記者会見で、恥ずかしげに言葉を選んだ乙女は、3人の親王、内親王の母となられた。
【1回目から読む】“昭和天皇の喪中”、“礼宮は学生で留学中”…「異例中の異例」だった秋篠宮さまと紀子さまの“ご婚約発表”
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