日本の小学校に編入した紀子さまの戸惑い
「『給食を残してはいけない』『帽子をかぶらなければいけない』といった学校の規則を知って不思議に思ったようです。時には『帽子をかぶりたくない』といって駄々をこねることもあったようです。けれど、それでも、『学校に行きたくない』と言って周囲を困らせるようなことは一度もなかったと聞きました」
和代は、この静岡滞在中に紀子の弟にあたる舟を無事出産した。3か月の静岡滞在を終えて、3人は東京に移った。紀子は新宿区立早稲田小学校1年に入学し、約2年間通学する。だが、ちょうど父が学習院大学に就職したため、昭和50年4月からは豊島区立目白小学校3年に転校し、さらに同年、母、和代の考えにより学習院初等科の編入試験を受けて合格、翌年には、学習院初等科4年に編入した。
その翌年には辰彦がオーストリアの研究所に赴任することになり、また転校を余儀なくされる。オーストリアはドイツ語圏であるため、現地ではアメリカン・スクールに通学した。紀子が通った小学校は、アメリカを皮切りに実に6校に及ぶ。しかも外国から日本国内、それも市立から学習院という特殊な私立学校まで変化に富んでいる。その後、2年間のオーストリア生活を終えて昭和54年に帰国、学習院の女子中等科1年に編入したが、2年間の外国生活によって、日本語はまた後退してしまったのだろう。大変にたどたどしかったという。
「紀子さまスマイル」
それにしても、実に目まぐるしい幼少期である。外国に行けば東洋人の少女は異国人であったろうし、日本に戻れば言葉が通じなかった。「笑顔は万国共通」というが、「紀子さまスマイル」と言われた、その笑顔の原点は、この幼少期に起因するのかもしれない。どんな環境でも相手の感情を見抜き、周りに順応して異分子とならぬように溶け込んでいく。この特異な経験が紀子を鍛えた部分もあるだろう。
昭和54年以降、辰彦は長く外国に滞在することはなくなり、学習院大学に落ち着いた。紀子も学習院女子中等科に入ってからは、転校を経験することはなくなる。
日本語力には相当なハンディがあり、それ故、学業には苦労した部分もあったことだろう。だが、高等科を卒業し順調に学習院大学に進学した。大学は男女共学であり、一学年の人数も一挙に膨れ上がる。その広いキャンパスの中で、礼宮と呼ばれていた、後の秋篠宮に出会う。