宮様との出会い
礼宮は、昭和40年のお生まれ、紀子より一つ年長であった。
構内の本屋で礼宮がたまたま紀子を見かけ、その後、ご自身が主宰される「自然文化研究会」というサークルに勧誘し、交際が始まったといわれている。
礼宮は愛車に紀子を乗せて葉山などへドライブに誘い、また、お住まいにもたびたびお招きになった。学習院近くのスナックでお酒を飲まれることもあり、自然文化研究会のサークル活動として、お二人はお仲間と一緒に木曾路や熊野などに泊まりがけの旅行もされた。そこに宮内庁の影はなかった。礼宮はいわばご自身の考えと行動力で、伴侶となる女性を見つけ、普通の若者がするような自由な交際を重ねていったのだった。
美智子妃や雅子妃の場合、皇太子からの強いアプローチがあったとはいえ、その過程には、宮内庁をはじめ、周囲の人々がさまざまな形で関与している。交際といっても、電話や手紙、あるいは、じかにお会いになるとしても、その機会は数えるほどであったろう。だが、礼宮と紀子の交際は、こうした皇室の伝統に縛られなかった。それが許されたのは礼宮が皇太孫ではなく、弟宮であったからだろう。
「紀子さんフィーバー」は「紀子さまフィーバー」に
やがて、ご婚約が発表されると、その日から、「川嶋紀子」は「正田美智子」以来の、皇室最大のスターとなった。かつて、これほど弟宮の結婚が大きく扱われたことはなかったはずだ。昭和天皇崩御の直後とあって、国民は皇室の慶事を待ちわびていたのかもしれない。
とはいえ、もちろん、このご婚儀に関して批判が全くなかったわけではない。
「伝統を最も重んじなくてはいけないはずの家が、なぜ、昭和天皇の喪中に婚約など許したのか」
「長幼の序というものがある。先に弟宮のお妃が皇室に入っては、後からお入りになる皇太子妃がやりにくくなるのではないか」
「将来、皇太子妃が男子に恵まれなかった場合、皇統に関係する。その時のことを考えて、きちんと選んだといえるのか」
そんな声を払拭したのは、国民の紀子妃への熱狂だった。婚約者時代から始まった「紀子さんフィーバー」は「紀子さまフィーバー」に変わって続いた。
国民は「3LDKのプリンセス」と呼ばれた女性が、果して皇室に馴染んでいけるのか、固唾を飲んで見つめた。それは幸い杞憂となった。紀子妃は折れなかった。
紀子妃誕生に遅れること3年。皇室に、ついに皇太子妃が迎えられた。だが、すでに紀子妃誕生を経験した国民には、どこか既視感があった。華やかな宮中行事もすでに紀子妃の時、マスコミに散々紹介されていた。
ご成婚前から雅子妃はマスコミにさんざん追いかけ回されるという辛い経験をされていた。紀子妃はお妃候補と騒がれる前に、正式に婚約者として紹介されている。婚約者と候補者では、報道陣の態度や報道姿勢がまったく異なる。