無視され続けた孝彦の意見
だが、同時に忘れてならないことは、孝彦が統計局長として従事していた期間は、まさに日本が軍国化を強め、大東亜共栄圏の確立のために統制経済を進めていく時代であったという点である。盧溝橋事件が勃発し、企画院が創設されたのが昭和12年。翌年には国家総動員法が制定された。それらを策定するために求められたものこそが、正確な統計データだったのだ。
孝彦は世界の統計制度をいち早く研究していた。そのため日本の統計制度の欠点と問題点に誰よりも早く気付き、大東亜共栄圏を確立するためにも、あるいは高度国防のためにも、日本の統計制度を見直し、改革を至急進めなければ大変なことになると孝彦は周囲に説いた。
危機感を募らせた孝彦は、近衛首相や東条首相ら内閣上層部に、たびたび意見書を提出している。だが、軍部や政界の上層部はいかに孝彦が工夫して説明をしても、統計学を重視しようとはしなかった。孝彦の意見は無視され続けた。統計を無視した結果が、その後、太平洋の戦場で、多くの餓死者を出した原因のひとつでもあろう。
昭和20年、終戦の日を迎えてから、内閣統計局もGHQの支配下に置かれた。そんな戦後の混乱期においても、食糧問題の解決などで真っ先に必要とされたのは、正確な人口調査や、それに基づく食糧の試算、すなわち統計であった。
この時、孝彦は戦時下に提出した「統計制度改革案」を内閣書記官長に改めて提出している。生前の孝彦を知る人が語る。
「しかし、戦争中と同様、それが受け入れられることはなかったそうです。アメリカの統計学は分権主義を取っており、一方、孝彦が主張したのはソ連型の集権主義といわれるものだった。GHQは当然、これを受け入れようとはしなかったのです」
GHQだけでなく大蔵省や厚生省、農林省もこぞって孝彦の改革案に反対した。孝彦を知る人が続ける。
「これに失望した孝彦は辞表を書き、昭和22年1月、内閣統計局長を辞してしまいました。妻の紀子さんには何も相談せず、辞表を提出したといいます」
統計学に対する周囲の無理解に、強い怒りを覚えたのだろう。エリート官僚の立場を自ら捨てた。和歌山に広大な田畑を持っていたが、折しも農地改革によってその資産も失ってしまい、厳しい生活を余儀なくされた。その後は参議院常任委員会専門委員、国会図書館専門調査員などを歴任し、孝彦は昭和33年、61歳で没する。なお今日、孝彦の統計改革案は再評価される方向にあるという。
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