例えばピンクの家を建てようとした移住者がいた。「青、赤、黄など原色を使ったイタリアの小さな港町が大好きで、真鶴にも合う」と思い込んでいた。独善の美でなく、周囲と調和する美を一緒に探そうと、卜部さんは提案した。議論を重ねるうちに、移住者は自分から赤い漆喰調の壁に変更した。
〇五年、景観法に基づく景観行政団体に指定され、条例を同法に合うよう変更した。その頃、マンションを巡る象徴的な出来事が続いた。
町の高さ制限が十メートルの地区で、高さ二十二メートルのマンションが計画された。県基準では建築可能で、業者は「町条例を守る気はない」とうそぶいた。町を挙げての騒ぎになり、最後は業者が断念した。
一方、町の高さ制限が十二メートルの地区では、基準を守り、外壁から植栽まで可能な限り美の基準に配慮したマンションができた。業者は美の基準に適合した物件であることを宣伝し、完売した。
条例は規制より、役場と業者が一緒になって「真鶴らしさ」を求め、建築物やまちの価値を高めるための手段だと認識されるようになる。
変わらぬまちで変化を起こす
条例が「美」と位置づけて守ってきたのは、バブル前の真鶴の姿だ。住民には変わらぬ風景だが、年月が経つに連れ、町外の人には懐かしいまちと見られるようになった。
まちが変わらなければ、生活もそれほど変わらない。背戸道で挨拶を交わしながら暮らす人々の姿が、競争社会とは一線を画し、田舎への移住を考える若者の心をとらえた。
変わらぬ風景と人を含めて「美」ととらえ、インターネットで発信している人がいる。一五年に移住して来た川口瞬さん(30)、來住(きし)友美さん(29)の夫妻だ。
「真鶴で最初に感動したのは、港から高台まで家が段々畑のように建ち並んでいる風景でした。漁師が多いので、全戸から海が見えるよう配慮し合った結果だと聞いて、さらに感動しました」と來住さんは言う。
東京圏の社宅や新興住宅地で育った二人は、満員電車で苦しそうに通勤する人生に違和感を覚えていた。そこで來住さんは大学卒業と同時に青年海外協力隊員としてタイへ行き、さらにフィリピンのゲストハウスで働いた。川口さんは一度会社に就職したものの、インドや日本の働き方を考える雑誌を発行したり、フィリピンに語学留学したりした。
二人は帰国後、「地方」での生活を模索した。真鶴に決めたのは「地元の人々に縁を感じたから」と川口さんは語る。川口さんは出版、來住さんは一日一組限定のゲストハウスを始めた。宿泊客には必ず真鶴のまちを案内している。
「二人の発信がきっかけになり、若い子がどんどんネットで真鶴のことを語るようになりました。若手の移住者はまだ十数家族と少ないのですが、非常に大きなインパクトがあります」と卜部さんは話す。
時期を同じくして、町の若者も様々な催しを行うようになった。
条例施行二十周年を記念して一四年から毎年行っている「真鶴まちなーれ」は、若手の芸術作品を空き店舗などに設置し、まち歩きも含めて楽しんでもらうイベントだ。
週末の三日間、真鶴に泊り込み、主にIT系の起業モデルを考える「スタートアップ ウィークエンド」も同年から毎年開催している。
これに関わる起業家のつながりで、翌年から若手音楽家らが海辺で合宿して曲作りを行う「クリエイターズキャンプ」を誘致できた。
役場が一五年度まで三年間に限って、若手職員や住民の十二の発案に総額五十六万円の補助金を出した活性化プロジェクトからは、朝市「真鶴なぶら市」が独立し、実行委員会が毎月末の日曜日に開催している。なぶらとは漁師言葉で、魚群が海面で飛び跳ねるさまを言う。この朝市のメンバーの一人は東京都の成城学園前で水・日曜日に特産品のアンテナショップを始めた。
「いずれも真鶴らしい風景が残っているから行われている催しです。美の基準が実体を持って動き出したのです」と卜部さんは目を輝かせる。
「なぶら市」を企画した町観光協会の柴山高幸さん(36)は「変わらないまちで、人々は変化を求めず、出る杭は打たれるのが真鶴でした。何も刺激がないから、若い人は東京に出て行きます。私もその一人でした」と話す。東京のIT系の会社でエンジニアをしていたが、約五年前に父の病気を機にUターンした。
「そんな真鶴が変わり始めている」と柴山さんは感じている。
「商店街ではシャッターを下ろした店が目立ち、町は今年度、神奈川県で初めて過疎自治体に転落しました。このままで大丈夫かと住民もようやく気づいてきたのではないでしょうか」と語る。
「変わらぬ風景」が価値を持とうとしている。「変わらぬ人々」はそれを生かせるよう変わっていけるか。
なぶらは立ち始めたばかりだ。