4月終了時点で、6勝21敗4分のダントツ最下位。10連敗まで喰らって借金は12球団最多の15と、開幕早々ボンビラスな世界を驀進するベイスターズ。悪い流れの時は何をしても悪いことが起こるのは、野球も人生も同じ。そんな1か月でありました。
『桃鉄』とベイスターズ
しかしツキが変わった5月1日。横浜スタジアムで行われたヤクルト戦は「『桃太郎電鉄 ~昭和 平成 令和も定番!~』スペシャルデー!」と銘打った冠試合。借金がチャラになる「徳政令カードでも出すのか」なんて期待の声を耳にしつつ、あの桃太郎電鉄こと『桃鉄』が、ベイスターズ戦でコラボを果たしたのである。これは全国の『べいすた社長』にとっても実に感慨深い出来事であった。
なぜなら桃鉄の作者であるさくまあきらさんは、桃鉄よりも歴史の長い『昭和 平成 令和』を股に掛けた大洋・ベイスターズファン。7歳の頃から60年以上もの間、この禅問答のような球団を熱烈に応援し続けた、徳を積みすぎたという意味でも神様のような人なのである。
「僕が大洋を応援し始めたのは初優勝の1960年頃。草野球で秋山登投手のマネをしたり、4番の桑田選手が『餃子100個食べる』と聞けば挑戦もしたよ。大洋にはあの当時から個性的な選手がたくさんいて、V9時代の巨人を度々豪快に打ち負かしてくれた。0対6で負けていても、長島をひっこめた途端に猛打爆発、逆転してしまうようなね、そんな大洋が大好きだった。その思いは今になるまでずっと変わりません。僕の人生のバイオリズムは大洋・ベイスターズと同じように進んできましたからね」
ハマスタのネット裏にある特別席に招待されたさくまさんは、うれしそうに選手たちのプレーに視線を送る。その先には、スコアボードに映し出される「桃太郎電鉄スペシャルデー」の文字。一度は桃鉄の制作から完全に引退したさくまさんが「もう一度完全に悔いのない桃鉄を作りたい」と手がけた4年ぶりとなる完全新作は、昨年11月に発売して以来シリーズ最大売り上げとなる250万本の大ヒットを記録。このたび発売元のKONAMIのスポンサードによって、念願の桃鉄スペシャルデーが実現したのである。
「本当に天にも昇ぼる心地とはこのことだね。ゲームがヒットしたこと以上にこの日を迎えられてうれしいよ。感無量」
そんな感慨に耽るさくまさんのうれしそうな姿を見ることができたこの日を、僕は一生忘れないだろう。
『スキあらばベイスターズ』の精神
80年~90年代に大洋・ベイスターズファンだった子供にとって、さくまさんは特別な大人であった。当時最高653万部を誇った超メジャー漫画雑誌「週刊少年ジャンプ」の超人気読者投稿コーナー「ジャンプ放送局」で局長を務めていたさくまさんは、誌面の中で度々「W」帽子をかぶって登場。突然「がんばれ大洋」なんてコーナーをゲリラ的にはじめるなど、スキあらばページの端々に大洋・ベイスターズネタを入れ込んでくるのである。
横浜以外の学校では少数派だった幼い鯨党は、『野球は巨人、マンガはジャンプ』の大メジャー時代に、革命的なマルハのゲリラ活動を続けるさくまあきら同志の活動に胸を熱くし『あんまり勝てなくてもこんなに面白くて魅力的なチームはない』と、応援する勇気をいただいたものである(投稿の常連者には「大洋優勝」という人がいたように、当時から自虐ギャグが多めだったことも現在までベイスターズファンのイズムに色濃く流れている気もする)。
そして、『スキあらばベイスターズ』の精神は、さくまさんが87年に生み出した桃太郎伝説。そして翌年からの『桃太郎電鉄』シリーズにも受け継がれていく。名前を「べいすた」にして横浜にあるプロ野球チームを買うと日本シリーズで優勝する確率が高くなったり、「☆に願いをカード」を使うと「熱き星たちよ」にそっくりのBGMが流れたり。スリの銀次がベイスターズファンに変装したとて、そんな瞬間に出会う度「ああ、ベイスターズファンでよかった」と他球団ファンの友達に胸を張れたのだ。
それは、ゲームになくても困らないノイズなのかもしれない。それでも好きすぎて、仕事にまで侵食してしまうほど好きすぎて、入れずにはいられなかった愛情なのだ。僕らはさくまさんのような大人げない大人たちの楽しそうな背中を見ながら、勝敗以外でも野球を楽しむという大事なことを教わってきたと思っている。
そんな大事な思い出があるからこそ、この桃鉄とベイスターズのコラボはうれしかった。
しかもこの試合は、オースティンが桃鉄の広告が出たスコアボードに当てる衝撃の幕開けとなり、大和の美守、先発中川の後を受けた国吉の好リリーフに、さくまさんや桃鉄とも縁が深いサザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」で登場した倉本寿彦の逆転タイムリーなどで10―2の完勝。
「至福の時間でした」
さくまさんの言葉と、雨上がりの晴れた空は、4月までの悪い空気をも一掃してくれたような気がしていた。