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教え子・梶谷隆幸から巨人移籍を告げられた日、アンチ巨人の“やくざ監督”が伝えたこと

文春野球コラム ペナントレース2021

2021/05/12

 私は物心ついた頃から庭や田んぼでボールを追った。

 小5までは我が家にはテレビがなく、ラジオを抱くようにしてプロ野球の中継を聴いた。その頃は巨人戦のみの実況である。プロ野球の情報は主に子ども向けまんが雑誌の中で見聞きした。表紙には大相撲の力士とともに野球選手が多く使われていた。生の映像は映画館で、映画の合間に流れるスポーツニュース映像の中で見ることしかできなかった。

 日本シリーズで南海ホークスが巨人に4連勝した際、“血染めの白球”という特集が雑誌に載った。南海のエース・杉浦忠が血マメを作りながら投げ続けたことがドラマチックに語られていた。血に染まったボールを受けた捕手・野村克也がマウンドに駆け寄り、「スギ、大丈夫か!」と語る場面は印象的だった。

 当時かなり劇的に脚色されていたであろうこの物語は、純粋な野球少年だった私の心を震わせた。それ以来、「野々村」と一字違いのこの捕手に惹かれてファンになる。

 白いシャツに彼の背番号「19」を書いて歩き、中学生の悪ガキに生意気だと叩かれたことを思い出す。私は熱烈な南海ファンになった。

弱小校を甲子園に連れていくために貫いた「反・巨人」の信念

 人気球団であり、スター軍団でもあった巨人軍は、私のアンチ球団となった。弱小球団が打倒・巨人に立ち向かう姿が快感となっていった。蟻(あり)が群がって巨象を倒すシーンを巨人の敗戦に重ね合わせた。

 しかし、なぜか“長嶋茂雄”だけは好きだった。輝いていた。長嶋が打って、巨人が負ける日が最良の日となっていった。

 やがて私は高校野球の指導者になった。ほとんど形すらないどん底のチームを甲子園へ、という大きな夢の実現に向け、折れず、倒れず、あきらめずに立ち向かっていく。そのためには、「巨人・大鵬・卵焼き」的人種では夢は叶わないという信念を得た。

 “無”から“有”を産むには、そういう感性が必要だと思う。「寄らば大樹の陰」ではなく、「野中の一本杉になる」という革命家とならねば大願成就とはならない。組織も人気もお金もある巨人の体質が随分と嫌いであった私は「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」という機微を持ち続けていた。

 梶谷のFA宣言は、お世話になり育てていただいた横浜DeNAベイスターズへの報恩の情はどれほどのものだったのかは察してあまりある。彼は熟慮の末に巨人入りを決断する。決意した日、一本の電話をくれた。

「ジャイアンツにお世話になることにしました」

 と、鮮明に私に言った。私は「人気球団だからこそ大変なことが待ち受けていると思うが、身命を賭して頑張れ」というような意味のことを言った。

 そして最後に「プロの世界に身を置くということは、ある意味年俸が評価である。恥じることなく頑張れ! 応援するよ!」と言ったことを覚えている。悩みに悩んだ結論だということは私には深く理解できた。

 南海ホークスは消滅して久しい。杉浦忠も野村克也も鬼籍に入った。現在のホークスといえば、昔の巨人を見る如く君臨している。巨人の日本シリーズ4連敗は屈辱である。私は巨人ファンにならざるを得なかった。