梶谷は何度も野球人生の死に直面し、その都度蘇ってきた
電話を終えて、彼の高校時代のある場面が頭をよぎっていた。
高3の秋のドラフト会議。横浜ベイスターズから高校生ドラフト3位の指名を受けた。地元のマスコミが押し寄せた。グラウンドでテレビ局のインタビューをせわしなく受けている。嬉しそうに顔が微笑んでいた。
その彼に一瞬の休息が訪れた。それを待って私の傍らに呼び寄せ、こう言っていた。
「カジ、今日までは俺は監督で、おまえにとっては絶対的存在だったかもしれないが、たった今からは梶谷隆幸というプロ野球選手の一ファンになる。野球の天才が集まるとんでもない世界に入るわけだから、もうはるかに私を超えた。これからはもう何も言わないから、自分のプロ野球人生を全うしろ」
一瞬唖然としていた彼は少しの沈黙のあと、「頑張ります」と力強く言った。私はそのとき、なぜそんなことを言ったのか今でも思い至らない。
それ以来、私は彼に電話をすることもない。好調時も不調の時も、一喜一憂しながらその活躍を祈り続けている。
高校時代の梶谷は2度大きな試練を受けている。高2の時、強度のヘルニアになり、外科医から「このまま野球を続ければ健全な社会生活すらできなくなる」と宣告されている。野球をやめるということは、彼にとっては死の宣告である。
“野球ができないなら、死んだほうが……”
そう思い詰めていた。
もう一度は、ヘッドスライディング時に指先を負傷してそこから悪性菌が入り、指の筋肉が壊死(えし)して指先を切断する危機に見舞われたことだ。
しかし、その都度、強い精神力と自己再生力で回復させ自分の肉体を変革してしまう。梶谷隆幸の真骨頂と言えよう。
どんな教え子でも卒業すれば等しく監督と選手の関係は“過去”のものとなる。すべての子が新しい環境のもと、もがきながら自分を磨き、自分の人生を歩み始めるのである。
指導者は卒業したあとは、その子の人生を祈るだけで良いと思っている。高校野球の指導者はそれくらいでちょうど良い。
監督の間は、その子の多感な青春時代の一時期を預かっているわけだから信念をもって命懸けでやることである。強制もするし厳しくも当たる。しかし、次のステージはあくまでもその子の人生における新しいステージなのである。
“人格者”などにはなり得ていない私如きの人間が、いつまでも他人(ひと)の人生に口出しすることは無用である。静かに見守って、その成長を祈り続ければそれで良い。ただそれだけである。
今の私などには及びもつかない“プロ野球”というとてつもなく厳しい闘いの中で生き抜こうとしている梶谷隆幸という選手に最大限の敬意を表し、私はただ「無事であれ」と祈り続けるしかない。
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