若き日の青木宣親インタビューから

 僕は青木宣親を尊敬している。「一ヤクルトファンとして」ではなく、「一人の人間として」、彼のことを尊敬しているのだ。39歳になった今もなお、ひたむきにボールを追う姿は、神々しく見えて仕方がない。かつて、まばゆいばかりの輝きを放っていた背番号《23》が、令和の時代が訪れた今も、重厚な鈍色の光をたたえつついまだ躍動していることを心から幸せに思うのだ。

 2004(平成16)年、早稲田大学からドラフト4巡目でヤクルトに入団。早大の同期には鳥谷敬がいた。プロ入り時点では、自由獲得枠で阪神に入団した鳥谷の方が、はるかに注目度は高かった。それでも青木は、1年目はファームで首位打者と最高出塁率を獲得すると、2年目に大ブレイクを果たし、イチロー以来となるシーズン200安打を達成。最終的には202安打を記録し、最多安打、首位打者、そして新人王に輝いた。

 そこからの青木の躍進は目覚ましかった。「チームの顔」としてはもちろん、日本を代表するスタープレイヤーとして、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)でも大活躍。一躍、世界にその名をとどろかせることとなった。

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 この頃、青木に初めてインタビューをした。『中学野球小僧』(現『中学野球太郎』)という雑誌だった。中学球児に向けて、熱心に、そして真剣に言葉を選んでくれる姿に好感を持った。このとき、青木はこんな言葉を口にした。

「基本にあったのは、“今日は精一杯やった”って思える日を一日でも多く作ることだけを考えていました」

 スター選手ばかりがそろう早稲田大学時代を振り返っての言葉だった。以来、僕はしばしばこの言葉を噛みしめるようになった。インタビュー終了後、編集者が「実は私も、長谷川さんも早稲田出身なんです」と告げたときの彼の言葉も忘れられない。

「えっ、そうなんですか! 早く言ってくださいよ!」

 先に告げていたからといって、彼の誠実さは変わらなかっただろう。続けて、「何学部だったんですか?」「何年、卒業ですか?」と気さくに語りかけてくる姿を見て、「浪人してまで早稲田に入ってよかった」と心から思った(笑)。

青木宣親

日本球界復帰後のインタビュー

 08年にインタビューしたことも懐かしい。13時スタートのオープン戦終了後、17時頃に取材開始の予定だった。けれども、実際はそうはならなかった。試合が長引いたわけではない。16時前にはヤクルトの勝利で試合は終わった。しかし、彼はなかなか現れない。

 結局、青木がインタビュールームに現れたのは、時計の針が18時になろうとする頃だった。試合終了から2時間が経過していた。彼の第一声は今でもよく覚えている。

「遅れてしまってスミマセン。ちょっとだけ、練習をしていました。今日の試合でいい感じだったので、この感覚を残しておきたくて……。本当に遅れてしまって、スミマセンでした」

 いえいえ、謝る必要ゼロですよ。いくらでも待ちますよ。このように、彼にインタビューするたびに、「これが本物のプロなんだな」と痛感させられっ放しなのである。

 10年からは、「ミスタースワローズ」こと、若松勉が背負っていた背番号《1》を背負うことが決まった。報道によると、それまで球団からの打診を受けても「僕にはまだ早い」と固辞していたのだという。その記事を読んだとき、ますます青木に対する尊敬の念は強まった。そうなのだ。ヤクルトの背番号《1》には、それだけの重みがあるのだ。青木もまた、この番号に対して強い敬意を払っていたことが嬉しかった。

 12年から17年まではメジャーリーガーとして研鑽を積んだ。さまざまなチームのユニフォームに袖を通し、いいときも、悪いときも経験した。ヤクルトファンとして、彼の奮闘は誇らしかった。「青木が頑張っているから、オレも頑張る」と素直に思えた。その一方で、「そろそろヤクルトに戻ってこないかな」という思いも抱いていた。そして、その夢がついにかなったのだ。

 18年が明けて、そろそろキャンプインだという1月29日、青木の電撃復帰が決まった。かつて背負っていた背番号《1》は山田哲人のものとなっていた。そこで青木は、スター街道を駆け上った、かつての背番号《23》をつけることが決まった。こうして、山田と青木が同じベンチに入り、スコアボードに一緒に名を連ねることになるのである。長い期間にわたって、一つのチームを、一人の選手を応援することの醍醐味を青木は教えてくれたのだ。

 日本球界復帰後の青木の姿は、ますます僕を虜にした。輝かしい活躍を見せていた「スター青木」が、年齢を重ねてさまざまな経験を積んで、「キャプテン青木」に生まれ変わっていたからだ。若い頃の青木には見られなかった人間的成熟。そして技術的円熟。「オレも青木のように年を重ねたい」と、一回りも年下の青木を見習うことを決めた。同じ戌年であることが本当に誇らしかった(笑)。