4年ぶりに「外国人タッグ」が復活した。プロレスの話ではない。ヤクルトの“助っ人”野手の話である。

 ここ数年、外国人野手1人体制でシーズンに入ることがほとんどだったヤクルトが、今年は内野手のホセ・オスナ(28歳)と外野手のドミンゴ・サンタナ(28歳)を獲得。他の多くの新外国人と同様、コロナ禍に伴う入国制限で来日は大幅に遅れたものの、開幕から1カ月近くが経った4月23日の中日戦(神宮)で一軍に合流すると、そこからは連日、ラインナップに名を連ねている。

 ここまでオスナは五番、サンタナは七番での出場が多いが、複数の外国人野手がスタメンに入るのは、ヤクルトでは2017年9月28日の広島戦(マツダ)にウラディミール・バレンティン(現ソフトバンク)が四番・レフト、カルロス・リベロが五番・ファーストで出場して以来である。4月24日にオスナがサヨナラヒットを放つと、25日にはオスナ、サンタナともに来日初アーチ。5月7の巨人戦(東京ドーム)では8回にオスナが勝ち越しタイムリー、9回にはサンタナが貴重な追加点となるソロホームランと、巨人戦の連敗ストップにそろって貢献した。

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 オスナはベネズエラ、サンタナはドミニカ共和国とどちらも中南米の出身であり、2人は練習中も行動を共にすることが多い。相手投手に関する情報なども共有していて、ダグアウトでも「このピッチャーはチェンジアップが多いな」、「オレたちにはまともに勝負してこないだろう」などと、頻繁に話し合っているという。

サンタナ(左)とオスナ(右)

バレンティン+ミレッジ=CS出場

 近年のヤクルトではなかなか見られなかったそんな「外国人野手コンビ」の姿も、かつては決して珍しいものではなかった。2015年以前は複数の外国人野手を擁するのが基本で、ときには3人の助っ人野手がスタメンに並んでいたこともある。そこで過去にはどんな「コンビ」がいたのか、歴史を遡りながら振り返ってみようと思う。

 まず、ここ10年で記憶に鮮明に残っているのは、バレンティンとラスティングス・ミレッジのコンビだ。2012年、バレンティンが規定打席未満ながら31本塁打を放って2年連続の本塁打王に輝くと、背中をグッと屈めたクラウチングスタイルのミレッジは打率.300(セ・リーグ5位タイ)、21本塁打(同4位)をマーク。前年に続くクライマックスシリーズ出場に大きく貢献した2人は、ベストナインの外野手部門で最後の1枠を激しく争い、バレンティンが1票差で“当選”している。

 バレンティンはカリブ海に浮かぶキュラソー島、ミレッジは米国フロリダ州の出身だが、どちらもフロリダ州マイアミに家を持ち、一見すると仲が良さそうではあった。ただし、ミレッジは気分の浮き沈みが激しい印象があり、バレンティンはそんなミレッジに振り回されていたとも聞く。2013年にバレンティンがシーズン60本塁打の日本新記録を樹立した際には「ミレッジが故障で長期離脱したことで、のびのびできるようになったからでは?」との声も、関係者からは聞こえてきていた。

ガイエル+デントナ=初のCS進出

 それ以前では、アーロン・ガイエルとジェイミー・デントナのコンビも忘れ難い。2009年は四番・デントナが打率.276、21本塁打、83打点、五番・ガイエルは打率.267、27本塁打、80打点。飛び抜けた成績ではないが、阪神との競り合いを制して初のクライマックスシリーズに進出する上で、この2人の存在は大きかった。

 ガイエルは来日1年目の2007年には、のちに名球会入りする「ラミちゃん」ことアレックス・ラミレスともタッグを組んでいて、このコンビもなかなかに強力だった。この年、来日7年目で円熟味を増していたラミレスは、打率.343、29本塁打、122打点。首位打者こそ青木宣親に譲ったものの、2度目の打点王、そして外国人としては初の“大台”となる204安打で、2度目の最多安打も手にした。100打点、200安打、打率.300の「100・200・300」を達成した選手は、日本プロ野球史上でもこの年のラミレスしかいない。

 そのラミレスと比べると見劣りしてしまうのだが、来日1年目のガイエルも打率.245ながら88四球を選び、出塁率はリーグ4位の.381。35本塁打はホームラン王の村田修一(横浜、現巨人コーチ)とわずか1本差であった。また、当時の古田敦也兼任監督の引退試合となった10月7日の広島戦(神宮)では、平凡に見えたフライを追いかけた相手野手が交錯する間にランニングホームランにするなど、しばしばそのバットで不思議な現象を引き起こした。ファンの間で「空間を歪めている」などと囁かれたゆえんでもある。

ラミレス+ペタジーニ=日本一

 この2007年までヤクルトで7年間プレーしたラミレスは、ガイエル以外にもいろいろな外国人野手とタッグを組んでいる。2006年にはアダム・リグス、グレッグ・ラロッカとの“トリオ”で、公募により「F-ブラザーズ」の異名を取ったこともある。ただし、最強のパートナーといえるのは、ラミレスと同じベネズエラ出身の“同胞”ロベルト・ペタジーニだろう。

 とくに2001年はペタジーニが不動の四番バッターとして打率.322(リーグ3位)、39本塁打(同1位)、127打点(同1位)でMVPを受賞するなど、チームを4年ぶりのリーグ優勝、そして日本一にけん引。日本に来たばかりのラミレスも打率.280、29本塁打、88打点と、打順は下位ながらよく打った。翌2002年もペタジーニが打率.322、41本塁打、94打点、ラミレスは打率.295、24本塁打、92打点をマークするのだが、ペタジーニの退団によりコンビはわずか2年で“解散”となってしまった。