大森新地――蒲田や横浜から労働者や映画関係者が集まった
大森新地は都土地という会社が旧東海道の美原商店街の東側に広がる浅瀬1万坪を埋め立てて1926年に完成させたもので、会社の名前を取って「都新地」と名づけた。
当時の地図だと、まわりは海である。
関東大震災後、芝浦など都心部から芸者置屋が移転してくると、1930年には置屋が31軒に急増し、同年に大森新地三業組合が設立された。
大森新地の最盛期は1933年から1940年あたりだそうで、蒲田や横浜方面から、労働者や映画関係者が客として集まったようである(「大森海岸 芸妓置屋 由よしの家や 」「大井海岸 芸妓置屋 まつ乃の家や」各ホームページ、『東京 花街・粋な街』)。
「アメリカの兵隊と親善のために交際をするのです」
大正、昭和の華やいだ、あるいはのんびりした歴史とは異なり、戦後の大井海岸は米軍の進駐に備えて日本政府がRAAを設置した町として記憶されなければならない。
RAAは日本語では「特殊慰安施設協会」といったが、特殊ということは特殊浴場と同じで、ただの慰安ではない。米兵に性を売ったのだ。日本は江戸時代以来、吉原を公的な売春施設としてきたが、敗戦直後も国が一般女性の貞操を米兵から守るという理由で、政府が三業地などの役員を集めてRAAをつくらせたのである。米兵が日本の女性に暴行をすると思ったのは、日本兵が侵略先で暴行をしていたからだと推測するのが自然だろう。
RAAは広告を打った。「新日本女性に告ぐ! 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む! 女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳迄。宿舎、被服、食糧当方支給」。敗戦後まもない8月28日のことである。
女性たちが集まったのは銀座。「幸楽」という中華料理店を警察が接収し、「福助」という食堂を買収してRAA本部の事務所となった。
米軍が上陸する8月28日までに、RAAは1370人の女性を集めた。焼け跡で仕事も食べ物もない女性たちがどんどん集まった。その9割は裸足でやってきたという。ほとんどが素人娘だった。