海水浴・温泉などの新しい娯楽が生まれるとともに新たな花街ができていた戦前。そして、戦後は米軍が花街に大きな影響を及ぼした。つまり、花街について考えることは、近代日本の工業化、軍国主義、戦後の占領、闇市、貧困、女性の性の歴史を考えることとも関連する。
ここでは、膨大な資料をもとに43の街を実際に歩き、「街の記憶」に眼差しを向けた三浦展氏の著書『花街の引力』(清談社Publico)の一部を抜粋。「花街」をキーワードに、閑静な住宅地として知られる白山エリアの知られざる街の歴史を紐解く。(全2回の2回目/前編を読む)
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マジで「ヤバい」街だった白山
白山というと都営地下鉄の三田線の駅であり、水道橋から2駅目ということもあって、都心とはいえ住んでいる人、通勤通学で通う人以外はあまり行かない駅かもしれない。だが、戦前は花街として栄えたところなのだ。
地理的には東側を西片、向丘、本駒込といった丘の上の高級住宅地から下ってきた低地である。低地なのに白山という地名なのは白山神社があるからだ。
白山三丁目は小石川植物園があるが、植物園の西側が小石川という川の暗渠だ。豊島区の長崎方面を源流とする谷端川が池袋あたりを蛇行して大塚の三業地を経て南下すると、小石川と名を変える。
そして、小石川後楽園や東京ドームあたりを流れて神田川に合流する。江戸時代の初期には、この小石川まで入江だったという。この小石川沿いは工場地帯であり、印刷工場などが多かった。徳永直の『太陽のない街』(岩波文庫)も、このあたりの印刷工場が舞台である。
なお、東京ドームは、30年ほど前までは後楽園球場、戦後は隣に遊園地としての後楽園が追加されていたが、1937年に球場ができる前は陸軍砲兵工廠であり、その前は水戸藩の上屋敷だった。
さて、この白山一丁目、本郷から下ったあたりに、かつてかなり名を馳せた三業地があったという。明治時代、このあたりに次第に商店が建ち始め、日清戦争(1894年)のころになると、前述した砲兵工廠の工員たちがたくさん行き来するようになり、住宅も増え、夜には露店が現れ、新開地として栄えていった。また、百軒長屋と呼ばれるような貧乏長屋もたくさんあったという。
さらに、日露戦争(1904年)のころから銘酒屋や楊弓場がたくさんできた。銘酒屋とは酒を飲ませる店でありながら酌婦がいて、そのまま店に上に上がって性的サービスをする店である。楊弓場とは弓矢で的に当てて遊ぶ場所だが、これも店に女性がいて、やはりサービスをするのである。楊弓場は矢場ともいい、「ヤバい」という言葉は、この矢場から生まれた。