アメリカ人や亡命したロシア人がモダン芸者になった
こうして、白山は夜の歓楽街になっていった。樋口一葉の『にごりえ』は、この白山の銘酒屋をモデルにしている。一葉も一時期、白山に住んでいたのである。
だが、街が発展するのはいいが、あまりに性的なサービスの街になっていくのも困る。そこで当時は警察に届けて正式に三業地として認めてもらうのがお決まりの方策だった。
警察が管理するのだから、私娼は排除される。料亭があり、置屋があり、芸妓がいて、ちゃんと芸妓を揚げて遊ぶ。最後にすることは同じでも、これなら天下公認だからである。
白山で酒屋と居酒屋を兼業していた秋本鉄五郎という人物がいた。彼が白山に三業地をつくる中心人物であり、白山だけでなく東京の各地の三業地の創設にも助力した人物である。1924年に没するが、その後は養子の秋本平十郎が街を発展させた。平十郎は戦後、RAA(編集部注:特殊慰安施設協会)の常務理事にもなり、その功績を称えた胸像が白山三業地跡地に今もある。
秋本は居酒屋を改修して料理屋「かね万」を1904年ごろに開業した。料理があれば酌婦が欲しいということで、近所の芸事の師匠に頼んでいたが、拡大する需要に応えるには不足であった。そこで、神楽坂、四谷、下谷、湯島の花柳界から芸妓を呼んでいたが、これでは能率が悪い。そこで、白山独自に花柳界、三業地の創設を急いだのである。
こうして、1912年に白山三業組合が設立され、1915年には白山三業株式会社となった。社長は秋本である。株式会社となった三業地は東京として唯一であった。1918~1920年ごろには全盛期を迎え、1922年になると「モダン芸妓」というものが白山に現れた。